SSブログ

5-1. 精神科医としての成長について [留学]

5-1. 精神科医としての成長について

書き忘れたことがったので、まとまらないかもしれないが重複をおそれずに忘れないうちに書いておこうと思う。

若かりし頃の私は、ずいぶんたくさんの患者さんをお世話していた。仕事以外のことにはあまり興味もなく(宴会は除く)仕事漬けの毎日を“堪能”していた。思えば家族にはずいぶんと迷惑をかけてきた。今から思えばもう少しゆとりを作って勉強した方がよりレベルの高い臨床活動が出来たようにも思うのだが、当時は自分が置かれた状況を客観的にとらえることが出来ていなかった。与えられた仕事を精一杯こなす、というか、外来や病棟にくる患者さんをとにかく頑張ってお世話して、おかれた状況でベストを尽くす、それでいいと思い決めていた。今思えば“甘ちゃん”だった。

国公立の多忙な病院で研修を積んで育った私のような医師は、よく大学などで研修してアカデミックな背景を持つ医師たちから“手ばかり動く医者になってしまって、、、”と揶揄されたものだが、私のような立場の医師は、彼らを“頭でっかちで口ばかり”とやり返していた。しかし現場でできるだけたくさんの患者さんをお世話して、、、というやり方を続けていると、やがて限界が来る、というか、主観的な“プラトー”に達してしまうことが多いようだ。私の場合もそうだった。具体的には、心身ともに疲弊して、、、というわけではなく、たいていの患者さんをそれなりのレベルでケアすることは出来るのだが、やることなすことがルーチン化してしまって、医療の質が向上する速度が遅くなる、といったようなことであろうかと思う。

私が当時短期間ではあるがお世話になった先輩は、“精神科医の進歩は二峰性”と言っておられた。その意味は、仕事を始めた数年間は、それこそ何も知らないので、毎日が進歩の連続であるのは言うまでもないが(誠実に働くのが前提)、一定の年月を経ると、進歩の速度が当然遅くなる。この段階で努力をやめてしまって、一生そのままだらだらと仕事を続ける精神科医が非常に多いのだが、実はこの先に、少なくとももう一段階、医師として成長するチャンスがある、というようなお話だった。このことはいつも私の心の片隅に引っかかっており、10年ほど修行を続けた私は、お恥ずかしい話だが、一つ目の峰を超えてしまったような気がしていた。つまり、同じようなことを続けていても、大きな進歩は望めないのではないか、と思いあがっていたのだ。“たいていの患者さんはなんとかすることが出来る”という自信があり、実際評判は悪くなかったように思うのだが、私が毎日携わっている患者さんの治療が何故うまくいくのか、ということをきちんと体系立てて論理的に説明して後進に伝えることは出来なかった。職人としては悪くないが、医師としてはこのままでは不十分なのではないか、何かが足りないのではないか、と感じるようになって苦しみ始めた。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。