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素晴らしい同僚たち 1. シカゴのJ [留学]

素晴らしい同僚たち 1. シカゴのJ

Jは一級上の落ち着いた黒髪の女医さんだった。私の様に英語が下手な外人、しかもでっかい黒髪ツンツンの東洋人に面白がって近づいてくる人は、あまりいない。最初に近寄って来るのは例外なく中年の女性。彼らは怖いものがなく?ものすごく好奇心が強いのだ。次が中年男性、彼らはフレンドリーな人が多い。異国で浮いている私を放っておけないのだろう。部下を指導する上司のような目線なのかもしれない。そして次に近づいてくるのは、なぜか若い女性だ。怖いもの見たさ、といったところだろう。一番冷たいのは若い男性、とくに白人男性ということになる。彼らの中には、あからさまな敵意さえ感じさせる人がいたように記憶している。同僚のレジデントや医師たちの中には、ほとんどお年寄りはおられなかったので、お年寄りは省略する。

Jは、私のことを面白がってけっこう早い時期に親しんでくれた。この人(と言っても実際は年下の女性なのだが)は細身、わりと長身、珍しいさらさらの黒髪で、瞳は濃いグレー、お肌は真っ白シロ、それで沢山そばかすがあった。目鼻立ちは当たり前だがはっきりとしていて、シカゴ出身と聞いていたが、イギリス人の様にゆっくりと話す。ユダヤ系の人なのかもしれないが、結婚して名前が変わっているので最後まで確認できなかった。Politically correctであることを無言のうちに要求されるため、性的なこととか、人種的なこととか、私のような雑な英語しか操ることのできない者は近づかないほうが無難だからだ。Jはきれいな若年女性なのだが浮ついた感じは皆無で、全体にしっとりと落ち着いており、クールな印象を与える。服などにはこだわらず、ブランド物などを身にまとうことはしない。しかしやはり手足が長いので洗練されてかっこよく見える。やはり洋服は、西洋人のものなのだ、と感じさせられた。家庭的な雰囲気は皆無で、生活臭を感じさせるようなことも無い人だった。(多くのレジデントはすでに結婚していたり、子供がいたり、はげていたり、おなかが出ていたりする)

最近は日本の医学部でも真似をしているようだが、米国には一部のリサーチマインドを持つ医学生のために“M.D.-Ph.D. コース”というプログラムが用意されており、確か2年間ほど長く就学して二つの学位を取得する、といった、いわゆるOverachieversのための受け皿が用意されている。Jはこのプログラムの数少ない卒業生で、お金を受け取りながら医学部を卒業していたとのことであった。米国では大学院生は立派な“職業”だそうで、このコースに潜り込むことができれば、医学部に通いながらお金を受け取れるそうな。しかしこれは結構きついプログラムらしく、途中で音を上げてしまうと、入学当初から受け取ったお金を返金し、さらに学費を最初から払いなおさなければいけないらしい。これは借金で火だるまになることを意味するので(米国医学生の借金のことについては稿を改めて記載したい)、このプログラムは乗ってしまったら降りられない、ジェットコースターのようなものなのだ。しかし無事に卒業すれば得るものは多く、例えば私の知る限り米国でPh.D.をもっていると、とりあえずバカではないらしいと認識されて周囲の人たちが自動的に一目置いてくれる。卒後の医師としての収入も多少は違うのかもしれない。ともあれ、Jは、高い倍率をかいくぐってこのプログラムに入り、おそらくクールに淡々と与えられたタスクをこなし、何本かの論文を書いて優秀な成績で卒業したという。だからとりあえず皆に尊敬されるわけだ。美人だしね。

ともあれ、最初に親しくなったうちの一人がJだ。こんなハプニングを経験した。

レジデントには、病棟の近くにレジデントルームが与えられており、その部屋にこもって(もしくは避難して)診療録をPCで書いたり、調べ物をしたり、着替えたり、泣いたり笑ったり、時には恋をしたりする。レジデントに与えられた小さなプライバシーであり、それなしにどうやってレジデンシーを乗り切ってゆくのか、私にはわからない。とにかくレジデントにとって快適でかけがえのない空間なわけだが、ある朝(レジデントの朝は早いのだ)、私がレジデントルームに入ろうとノックをして、ぶ厚い木のドアを開けると、なんとJがおり、着替えをしていた。男女の区別なく、同じ部屋を使っているわけなので、こんなことが起こるのも仕方がない。私は何も悪いことをしていない。ノックをしたときにJが何も言わなかったことも悪かったのかも。そうではあったが、ちょっとだけ見てしまったのだ。彼女の豊かなものを。私の頭はすぐにショートしてしまった。“どうしたらよいのだろう?“”セクハラ“とかいって訴えられて国外追放なのか?走馬灯のようにそれまでの人生が頭の中を駆け巡ったりして、、、。もちろんうっとりと眺めたりすることなく、”やるねー”などとニヤついたりすることもできず、反射的に“ごめんなさい!”といってすぐにドアを閉めた。レジデンシーを始めたばかりの私は、こういったハプニングを楽しむだけの余裕なんてなかった。それでしばらく外で様子を伺って、呼吸を整えてからゆっくりとノックをして部屋に入った。着替えを終えたJに“どうやって謝ったら許してくれる?”とおずおずとひきつった笑いをほほに張り付けて尋ねてみた。精一杯冷静を保って。でっかいひげ面の東洋のオジサンがもじもじしている姿は、かなり情けない印象を与えたと思う。すると満面に笑みを浮かべたJは、“全然問題ないよ”“見る?”と、再びなにか美しいものを私にむけて開放した。痺れた。

Jは彼女なりの方法で私に気をつかってくれたのだと思う。その後も“先輩”として何くれなく相談に乗ってくれ、日本で私が受けた教育なども興味を持っていろいろと質問し、私の書いた論文も読んでくれてメールでコメントをくれたりもした。彼女の存在が、厳しかった私のレジデンシーにどれほど明るい光を投げかけてくれたか、はかり知れない。今でも大変感謝している。現地の好意的な人たちの温かい目線なしには、外国人が仕事をすることなど不可能だ。

彼女は決してラテン的な性格の人ではなく、勤勉で物静かなむしろゲルマン的な女医さんで、レジデンシーを淡々と危なげなく終了し、卒後すぐに母校の助教になった。その頃に一度だけ会う機会があったが、相変わらずクールで格好いいおねいちゃんだった。子供を作らないのがナゾであったが、理由を質問することははばかられた。それでも結構幸せそうにしていて、なんだか安心してしまったことを覚えている。

渡米してたくさんの素晴らしい人たちに会う機会を得たが、面白そうな同僚の話をしろ、というのであれば、やはりJの名前が最初に思い浮かぶ。とってもインパクトのあるヒトだった。大変お世話になりました。ありがとう、J。

同僚たちのことを思い出して書くのは楽しいということが分かったので、とりあえず思いつくままにどんどん書こうとおもう。
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素晴らしい同僚たち 2. ミネソタのM :軍人として生きるということ [留学]

素晴らしい同僚たち 2. ミネソタのM :軍人として生きるということ

Mはかつて軍人だったという。軍関係の仕事をしていた人たちに対する一般的なアメリカ人の反応は独特であり、私のような部外者から見ると、尊敬しつつなんとなく偏見を持つ、といった趣を感じさせた。(失礼があったらすみません)在郷軍人(Vet.と呼んでいたし呼ばれていた)たちの結束は固く、Vet.同志、もしくはその家族同士が、なんというか、大きな家族のようなつながりを持って、お互いに助け合うといった独特の文化が醸成されているように思われた。病院で初めて出会った人を、Vet.同志というだけで自分のクルマで家まで送ってあげたり、食事に招待したり、いくら田舎の小都市と言ってもあまり一般的なアメリカ社会で行われていないような付き合い方を目にすることが頻繁にあった。そのように記憶している。蛇足だが、私がレジデントになった頃は、在郷軍人病院があるようなところは、とんでもない田舎なのだ、と教えられていた。

私自身も在郷軍人病院で数年間働いた経験があるわけだが、アメリカでは基本的によそ者(外人)であり、実際には軍関係者ではないため、当初はその文化の中に入り込むことは難しいのではないかと思われた。しかし実際は、病院の中の売店や食堂で、いろいろな人たちが背は高いが毛が真っ黒で頭がツンツンしている異形の私に気にせずどんどん話しかけてくる。道を聞いてくる人さえいた。なぜ私に?短い雑談(small talkという)は、完全な口語であるため、私には結構難度が高かった。ともあれ、確かに私も外側から見れば在郷軍人病院の職員に見えるわけではあるが、なんというか独特の親密さを感じさせられて、なんとなく雰囲気に飲み込まれてやがて一体化してしまった。客観的にはどう贔屓目に見ても異端者である私が、大きな集団に無理なく自然に帰属することが出来て、正直に言えば、普段は孤立しがちであったためか、居心地がとてもよかった。

入院していたお年寄りの在郷軍人と太平洋戦争(と記載してよいのだろうか)について話をしたときにはさすがに緊張した。その際は、相手が私に割り当てられた患者さんであったため、自分が日本人であることを正直に伝えたうえで、治療にあたらせていただいた。幸いにしてコミュニケーション上の大きな問題はなかった。しかし心情的にはどうだったのか、患者さんでない私には本当のところはわからない。病棟で仲良くなり、冗談などを交わすようになった精神科の患者さんたちが、B29 のプラモデルをこれ見よがしに私に見せてげらげらと笑ったりしたことがあった。私は怒り出すわけにもいかず、自然に笑うことも出来ず、どんな反応を返せばいいのか困惑してしまい、ヒジョーに厳しい、居心地の悪い時間を味あわされた。外国で仕事をするというのはなかなか厳しいことだ、と思うのはこういう時だ。

Mは軍隊で、大陸弾道弾の発射に関する、とある重要なミッションについていたそうだ。国家の機密にかかわることなので、何をどうやっても軍の仕事に関することは全く口を割らない。であるから、軍隊関係の仕事についてはあまりたずねないことにしていた。尋ねるとなんだか物悲しい顔をして微笑むようになってしまったからだ。Mは小柄で筋肉質、服装に気を使うおしゃれな男で、後に私と同年齢であることを知った。ということは、7-8年は軍隊で働いていたということになる。立派な軍人さんだ。恐らく何らかの業務で高く評価され、頭脳明晰であることが明らかとなって、結果として軍の後押しで医学部に進学する機会を得たのだろう。彼は一切自慢はしなかったけれど。努力を重ねて学業を立派に修めて医学部を卒業し、偶然私と同じ大学病院や関連病院の一つである在郷軍人病院に勤めることになったというわけだ。Mは乗り物が好きで、“でかいエンジンのクルマが好きだ”といってなぜか真っ黒でピカピカの、大きなエンジンを積んだNissanを愛していた。アメ車は全然だめだと言っていた。それ以外にも大きなバイクとか、古いオープンカーとか、家を訪ねたことこそ無いが、エンジン付きの乗り物を沢山所有していたらしい。

彼は結婚はしていないもののものすごく年下の婚約者と同居しており、その子はなんというか、おとぎの国のお姫様のような、現実離れしたやや幼い姿かたち、服装をしていた。軍隊で働いた背景を持つ、マッチョでクルマ好き、ロリータ趣味?(失礼があったらすみません、しかし他に適切な言葉が出て来ないのです)という、まるでアメリカという国を体現したような、力持ちではあるが、大きな赤ん坊のような男だった。彼は明るく、いつも笑っており、人を引き付ける魅力に富んでいた。気を使って周囲の人たちに常に話しかけ、レジデントたちの厳しい研修の場を盛り上げようとしていた。もちろん私も彼のことが大好きだった。軍隊における彼の立場は自分にはよく分からなかったが、兵隊であると同時に医師であることで、かなり高いポジションに据えられていたようだ。時に軍隊に同行して、遠くまで飛行機で飛んで行って、兵隊の世話をしたり、講義をしたりしていたようだ。いわゆるActiveDutyに携わることはないが、軍隊の活動には常に関わっていたようだった。

レジデンシーも学年が進むと、入院だけではなく外来も受け持つようになるのだが、希望すれば在郷軍人病院で働くこともできた。経済的に苦しいレジデントの中には、週末に家族との時間をあきらめて、外部の病院で働き、お金を稼ぐような奴もいた。結構高額な給料をもらっていて実はものすごくうらやましかった。私はいくつかの理由で在郷軍人病院での外来研修を選んだのだが、Mも当然のようにそれを選んだ。“軍人の事は軍人が一番よく分かる”と言って。

私はたまたま興味があって、PTSDに苦しんでいる兵隊さんたちを自ら沢山Careしたのだが、彼も同様で、時には休日を返上して手当も出ないのに外来をやったりしていた。たまに手伝いをかって出ると、彼は非常に感謝してくれた。”Vet.に代わってお礼を言うよ”なんて言っていた。また、アメリカの軍隊の文化では、誰も口には出さないものの、“精神病は心の弱さのために起こる”という考え方、感じ方が根強く残っており、(陸軍、海軍、空軍、沿岸警備と、それぞれに文化が違って、行動様式や考え方の方向性はずいぶん違うようだったが)精神的に不安定になってしまった兵隊さんたちをCareするときには非常に気を使った。医者は上官として扱われるので彼らは基本的には我々に絶対服従だが、兵士としての誇りを傷つけないように、デリケートに扱う必要がある、ということだ。Mは誰よりもこのことに敏感だった。

PTSDの患者さんの講義を受けるときなどは、突然興奮して真面目な顔をして立ち上がり、“兵隊たちはストレスでおかしくなったんじゃない、脳が壊れただけなんだ”“心が弱いんじゃない、脳の問題なんだ。ここにいる皆にはそう理解してほしい”などと一くさり語ったものだ。恐らくそんなMを煙たがっていた人たちもいたのだろうとは思うが、個人的には立派なかっこいいアメリカの男だな、と尊敬していた。

Mは“レジデンシーが終わったら、牧場を買って(日本人の私には理解できない、そんなもの買ってどうするんだろう?)車をいじりながら、兵隊の面倒を見て、家族と一緒にのんびり過ごしたい”、とよく話していた。最近はどうしているか、卒後連絡は取っていないが、私にとって最もアメリカを感じさせる同僚がMだった。彼は今頃Big Daddyになっているのだろうか?


その後、彼は小児精神科医になる道を選んだらしい。

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素晴らしい同僚たち 3. ニューメキシコのS:洋の東西を問わず若者はお金に苦労する [留学]

素晴らしい同僚たち 3. ニューメキシコのS :洋の東西を問わず若者はお金に苦労する

Sは子連れの女医さんだ。お父さんは不法入国?のメキシコ人、お母さんは白人の弁護士さん、といったちょっと複雑な家族背景を持っている。詳細は失礼なので聞いたことがないが、メキシコ国境にほど近い米国南部に住んで、恵まれない人たちに法的な援助の手を差し伸べていたお母さんが、メキシコ人と恋に落ちて結実したのがSで、なんともロマンチックな話なのだが、Sご本人は失礼だがあまりロマンチックな人には見えず(失礼)、色は白いが大柄でふくよかなメキシコのオバサン、と言ったところ。田舎のオバサン的なおだやかな雰囲気を漂わせており、会って話すと安心した。

この人もお母さん同様にボランティア精神にあふれており、二人の子供を産んだ時にずいぶんつらい思いをしたらしく、何がどうしてそうなるのかは語ってくれなかったが、“精神疾患をもった人たちの出産を助けたい”と考えるようになり、私と同じ大学病院にある家庭医学と精神科の複合プログラムで研修を始めることになった。このプログラムはFP-Psych(エフピー・サイク)と称され、心身両面の研修を積まなくてはならないため結構忙しく、その期間も5年間と一般のプログラムと比べると長い。彼女は上述したようにすでに子供が二人おり、夫は定職についていなかったため様々に多忙であった。よく言われていることであるが、レジデンシーは最初の数年が大変で(多くの人たちが嫌がるような、様々な意味で厳しい研修が初年度や次年度に多い)、上に上がるほど楽になるのだが、Sは家庭と仕事の両立が困難となり、FPかPsychのどちらかを選択することを迫られて、結局FPを捨ててPsychのレジデントになることを選んだ。めでたく?私の同僚の一人となったわけだ。内部に入り込んでから知ったことだが、専門性が低いためか、FP(家庭医学)のレジデントのポジションはあまり人気がなく、私が所属した大学病院の中では、当時もぐりこむのが一番簡単なレジデンシーの一つだった。だから医学部時代に学業成績が今一つだったなど、何らかの問題を持っているような人は、まずFPにもぐりこんで、一年間頑張って個人的な評価を上げ、その後に希望のプログラムに変更する、というようなことをする。多くの米国の研修医や医学部生たちは必死なのだ。だからSのようにレジデンシーの途中でコースを変更することは珍しくない。このあたりの事情は、別に章を設けて書こうと考えている。

レジデントたちにはアメリカ人たちの一般的な水準を鑑みると結構な収入があり、日本のように“修行中の身の上”ではなく、りっぱな“職業”とみなされていた。ご存知のように米国は経済的な二極分化が極端に進んでおり、例えば高卒で特別の資格を持たない一般的な米国人の生活はお世辞にも“豊か”とは言えないものであった。その状態から抜け出すことは、よほどの幸運に恵まれるか、人並み外れた努力をするか、特別のことがなければ難しいようだ。愛すべき我が極東の小国とは、別の意味で深い闇を抱えた国家なのだ。そんなわけで、贅沢さえしなければレジデントが家族を養うことは十分に可能で、実際に家族を養っているレジデントはかなり多く、Sもそのうちの一人であった。夫と子供二人を借金しながら養っていたわけで、なかなか立派だ、と密かに尊敬していた。英語でbread-winnerという表現がある。日本語でいうとおそらく一家の大黒柱という言葉がこれにあたると思うのだが、Sはそういう役割を自ら選び、淡々と生きていた。鼻息はちょっと荒かったが。

私の理解している限りにおいて、米国のレジデントたちの経済的なバックグラウンドはあまり恵まれているとは言えなかった。前提として、医学部というのはgraduate-school、つまり大学院にあたるため、まず普通の学部を卒業しなければならないわけだ。この段階までは奨学金を受け取ったり、親から経済的な援助を受けたりして卒業する人たちがけっこういるようだが、学部を卒業するためにすでに銀行からお金を借りている人たちもいた。この間に何らかの形で高い評価を受け、推薦状を沢山もらって医学部に進学するわけだが、このあたりから医学生たちの借金人生が始まると聞いている。医学部の学生にお金を貸せば、利息を含めてお金が返ってくる可能性が極めて高いため、銀行は先を争ってお金を貸したがる。高い学費、生活費、その他の雑費など、銀行は医学生が卒業するまでに1-2千万円のお金を貸してくれるのだという。当初の設定でお金が足りなくなると、医学生たちは銀行の担当者と話し合って、例えば壊れた車を中古車に買い替えたりする。そのたびに難しい顔をして銀行と電話をしている学生やレジデントの様子を観察したことが何度かある。うまくいくと、“これでWifeの車を新しくできる!”などと、晴れ晴れとした笑顔で話してくれたりしたものだ。

レジデントになると、それなりの給料を受け取るようになるのだが、卒業までは、借金の返済を待ってもらえるようだった。もちろん利息は付くわけだが。失礼にあたるので、個人的に詳しく事情を聞いてみたことはないけれど、返済の利息は、元金をはるかに超えるそうで、銀行はいい商売をしていると思った。一旦卒業してしまえば米国医師たちの社会的地位は日本と比べてはるかに高く、給与水準も高いので、まじめにやってさえいれば返済に困るようなことはない。上手くできている。しかしなんらかの問題を起こしたり病気になったりしてしまうとこのスキームから脱落してしまうことになるわけで、残るのは借金ばかりだ。身のまわりで悲惨なことになった話を聞いたことは幸いにしてない。こんな事情があるから、医学生やレジデントたちは命がけで勉強や研修に取り組むわけだ。日本とは事情が違う。真剣さが違う。本来の意味で生存競争にさらされているといってもいいのかもしれない。このような背景を知ることなしに米国の医学教育のありかたを理解しようと試みることは間違っているといえるだろう。そんな人生における厳しい時期に苦楽を共にした同僚たちは、お互いにとって忘れられない存在になることはある意味当然だ。私自身はそのような生存競争から一歩引いた立場に身を置いていたため、時に罪悪感を感じるようなこともあったけれど。

話を戻す。そのような背景を持ったSは、夫や子供の面倒を見ながらレジデンシーに奮闘していたわけだが、子供の世話はやはり大変そうだった。信頼できる評判の良い保育所に子供を預けると、月に確か5-6万円請求されるのだが、お金の実質的な価値は実質的に日本の倍程あるため(田舎なので贅沢さえしなければ物価が安い)、これはかなりの負担だ。Sはお金に余裕がなかったので、基本的に彼女の夫が子供の面倒をみて、夫が何らかの仕事(コーヒー屋さんなんかでバイトをしていた)をしているときにはSは子供たちを職場に連れてきた。私は子守はあまり得意ではなかったのだが、彼女の娘は宮崎駿が好きで、三鷹にあるジブリの美術館に行ったことがある、なんていうので、なんとかかんとか話を繋いで短時間なら面倒を見ることができた。本場の日本でナウシカの漫画を買ってきてそれをプレゼントしたときにはずいぶんと喜んでくれた。仕事用のPCを叩きまくってゲームをするのには参ったけれど。

Sは身なりに構わず、髪はザンバラ、メガネは丈夫だけが取り柄の男がかけるようなごつい黒メガネでコンタクトの使用などは考えたこともないらしい。しかも安物の分厚いレンズがついており、お世辞にもファッショナブルではない。洋服は地元の安いスーパーで仕入れ、ブランドものを持っていたり、着ていたりする様子を見たことがない(ほとんどの同僚たちがそうであったが)。それでかなり太っているので、同僚たちにはあまり人気がなかった。人柄のいい人なのに残念なことだ。レジデントたちは皆、“経済的だから”といった理由で家を買うのだが、彼女もその例外ではなかった。卒業したときに値段が上がることを期待してレジデントを始めるときに家を買うわけた。彼女自身の言葉によれば、“古くて汚くってじめじめしている。地下室(basement)にはとても入れない”とのことであった。“人を招待するなんでとってもムリ”ということで、一度も家に招待してくれなかったことは残念だった。その後その家は、Sが卒業するときに、かつてそこに住んでいた人の親せきが、懐かしがって買ってくれたというが、その話を聞いたときは、他人事ながらほっとしたものだ。

助け合いながら(実際はもちろん助けられることが多い)結構仲良くやっていたのだが、突然別れ?はやってきた。Sは、お母さんから受け継いだ血が突然騒ぎ出したらしく、“法律をやる”と言い出したのだ。それには訳があり、Forensic Psychiatry(司法精神医学)の専門家、弁護士と精神科医のあいのこのような、BMWのSUVに乗った、颯爽としたものすごく美人のG先生が大学にやってきたからだ。この分野の専門家はそれまで大学にはおらず、着任早々に流暢なプレゼンを繰り返して我々を魅了した。ファンがたくさんできた。しかし分野が特殊であるため、G先生に師事しようというレジデントはなかなか現れなかった。実際、私にはどんなことをする学問なのか、想像もできなかった。私が治療していた患者さんが法的な問題に巻き込まれたときに、法律的な相談に乗っていただき、助けてもらったことがあるくらいだ。"Don't worry, my dear"なんて言ってハグされたときは、ドキドキして死ぬかと思った。ともかく、G先生は研修するレジデントを大募集していたのだが、最初に手を挙げたのが、なんと我が親愛なるSだったのだ。“あたし、やる”などと言いながら、あまい整わない身なりでG先生のオフィスに行って鼻息を荒くして弟子入りを申し込んだものだ。幸いG先生の受け入れは良好で、Sは目出度くForensic Psychiatristとしての一歩を踏み出すことができた。どんなことを学んだのか、私は研究に軸足を置いたレジデントであったため、よくわからない。そんなわけで、残念ながらその後、Sとの付き合いは薄くなってしまって、たまにあった時に話をするくらいになってしまった。

Sはレジデンシーを終了した後、司法精神医学の道を突き進み、最近は特に医療訴訟関係の問題をかかえて苦しんでいる人々のために奉仕する毎日を送っているようだ。“近くによったら遊びに来てね。マジで言っているのよ、わかる?”と最後に会った時に言ってくれたことが印象に残っている。今思えば、Sにはずいぶんお世話になった。元気でやっているだろうか?たぶん今でも鼻息荒く毎日頑張っているのだろう。 ありがとう、元気でね、S。
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素晴らしい同僚たち 4.中西部の医学生S [留学]

素晴らしい同僚たち 4.中西部の医学生S

彼女のことはよく覚えている。研修中に、最も精神症状の激しい患者さんをケアする病棟で悪戦苦闘する私に話しかけていたくれたことが彼女との出会いだった。“K、あなたは上手くやっているわね。いろんな外人をみたけれど、あなたはずいぶんうまくやっているわよ”と言ってくれたっけ。

私には、Sは中西部の典型的な保守的でまじめた医学生に見えた。私の個人的な理解では、アメリカ中西部というのは文字通り大陸のど真ん中にあり、夏暑く冬寒い土地柄であり、白人が多く、文化的にも宗教的にも保守的であり、地味に努力を積み重ねることが良しとされている、おそらくこれが本来のアメリカ文化なのだろう、という雰囲気を今に残している地域である。個人的な経験に基づく、ものすごい偏見で言い切ってしまえば、中西部の典型的な女性はやや大柄でふくよか、といったことになろうかと思う。Sもそんな女性の一人であった。Sはブルーネット(というのだろうか)の豊かな髪を長く伸ばし、愁いの深い瞳をした、全体につつましい雰囲気を漂わせた医学生だった。肌は真っ白で瞳は薄いブラウン、鼻も口も、控えめな大きさで、知的な印象を与える。小さ目な白衣を窮屈そうに身に着けていた。大学の隣町の出身で、ホームタウンでは彼女は当然かなりの秀才で、家柄も良い子であった。子、と書くと抵抗があるくらい、体の大きい、やや骨太で背が高い女性だった。大柄であることをやや恥じているようで、背を丸め、かかとの低い、ペタンコの、それこそ昔の日本の女学生が履きそうな、赤い革靴を履いていた。アメリカの女性の医学生によく見受けられるような、明るい微笑みを浮かべながら大声で主張しまくるような、アグレッシブな印象はほとんど与えない人だった。

彼女は明らかにアジア系の顔をした、その割に大柄な私に興味を持ったようで、結構器用にPCを扱う私を眺めて不思議そうにしていた。私のタイピングがものすごく速かったからだろう(私はPCマニアだったので、ブラインドタッチも昔ずいぶん練習した)。彼女は、このあたりにはあまりアジア人はいない事、いても中華料理屋さんとか寿司屋さんとか、その国独特の文化を生かした仕事をしている人が大半であること、医学の世界、特に臨床をしている人はほとんどいない事(アメリカで生まれたアジア系のアメリカ人は除く;実際、私がいた州で精神科医の免許を持っていた日本人は私一人)などと私に告げ、ニコニコと微笑みかけた。私はアメリカでは、おかしな英語を操る巨大なアジア人として、微妙な差別とかいじめにあうことが日常的であったのだが(パーソナリティ障害の人に母国に帰れと言われたのはこたえた)、分かりやすい形で好意を投げかけられることはほとんどなかったので、結構うれしかった。日本では尊敬されるとまではいかなくとも、まあまあ頑張っている人として粗末にされるようなことはあまりなかったので、アメリカに渡った当初はずいぶん傷つくことも多かったのだ。

それで、Sと話をした機会に、アジアに興味があるのか、と尋ねてみた。Sはみつのような微笑みをたたえてうなずき、彼女のPersonal Storyを語りだした。興味深い話で、すぐにひきこまれてしまった。びっくりした。彼女は子供のころから何故かアジアの文化に興味を持ち、勤勉で優秀な女子大生であったころに、何度もアジアの諸国を訪れたのだという。話はそれるが、アメリカドルが強いためか、諸外国に旅行するのは日本人が海を越えるのと比べてずいぶんハードルが低い。だから、東京の人が北海道に遊びに行くくらいの感じなのだと思って読んでほしい。話を元に戻す。それで、今はなくなってしまった某国を何度か訪れ、すっかり気に入ってしまい、機会があるごとに何度も訪問していたのだという。どんな文化が気に入ったのか、詳しい話は忘れてしまったけれど。何度も通い詰めるうちに、感じのいいSは某国の若い男性と知り合いになり、帰国後も連絡を取り合って、関係を深めていった。その後Sは、自分でバイトしたお金で彼を何度かアメリカに招待し、彼に自由の国の文化を堪能させてあげたのだという。

詳細は記憶していないが、彼女が何度目かに彼をアメリカに招待していたとき、彼の国が突然政治的に不安定となり、結局国に帰ることができなくなったのだそうだ。それで彼女は自分の家族の反対を押し切って彼の正式な身元引受人となり、彼を全身で抱き取った。彼女は結局家を出ることとなり、彼と一緒にアパートで同棲生活を始めた。彼女は働きながら大学を卒業し、彼を支え、アジアのどこかの国で生活している彼の家族に仕送りをし(テレビと冷蔵庫を持っているのは、彼の家族の住む村では一家族だけだそうだ。当然Sの仕送りで買ったわけだが)、勉強を続けて医学部の学生になった。大したものだ。私の理解では、アメリカで医者になるということは、かなりのエリートと考えていい。日本とは大違いだ、、、僻むのはやめて本文に戻る。

そんな彼女が、アジアのどこかからきて頑張っている?私を目にして、興味をもって話しかけてくる、というのは、よく理解できる。Sと親しくなってから、彼のことをよく話題にしたが、“部屋に閉じこもっていて掃除をしないので男臭い”“怠け者”“小さくて弱い”などとこき下ろしていた。彼は、おそらくビザの問題などもあって(おそらく難民のようなポジションなのだと思う)、仕事をしていないと聞いたが、彼女の言葉とは裏腹に、Sはそんな彼を心から愛しているようで(言行不一致はアジア的だと思う)、彼を受け入れることを強硬に反対した家族との絆を失ってしまったことを、決して後悔していないようだった。“私はいつでも結婚する心の準備ができているの”“でも彼ははっきりしないのよ”と、恥ずかしそうに頬を染めていた彼女のことを、たまに懐かしく思い出す。

当時の私には心理的な余裕がなく、彼と直接会ったり、家族で食事に行ったりすることはなかったが、そんなお付き合いをすることが出来れば、彼女も彼も、おそらく喜んでくれただろう。しかし当時の私には、そこまで彼らを思いやる余裕がなかったことが悔やまれる。

”アメリカという国は”、と大上段に振りかぶって理解しようとしても、おそらく空回りするばかりであろうが、自分の身の回りの人たちとの個人的なかかわりの中から、何か本質的なものを見出すことはできるのではないかと思われる。私はSとのかかわりの中で、アメリカ人の中に脈々と流れる、Mothership(Sは女性なので)のようなものを感じて感動した。キリスト教を信ずる国には、“野蛮な後進国の人々に信仰を”といったノリで、与えることや教えることを良しとする文化が根付いているように思われるが、彼女の無償の“愛”のようなものも、キリスト教的な文化に支えられているのかもしれない。彼女の個人的な持ち味ないのかもしれない。解釈は様々に成立するように思われるのだが、私はSとのかかわりから、アメリカ的な、もしくは大陸的な“広い心”のようなものを感じることができ、その後の人生が少し生きやすくなった。

アメリカ的なMothershipのような話をもう一つ思い出したので、忘れないうちに書いてみたい。お暇な方はこうご期待。
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素晴らしい同僚たち 5. アメリカのお父さん [留学]

素晴らしい同僚たち 5. アメリカのお父さん

家を出て車に乗る、、、ここまでは日本にいるのと同じくらいリラックスしている。しかし車に乗りこみ、リモコンでガレージを開け、家から路上に出て運転を始めると戦闘態勢に入る。運転のマナーはよいが、古くてぼろぼろの車がたくさん走っており、走る車線は反対側だ。しかも右折するときは信号が赤でも注意深く曲がることが許されている、、、ぶつかってもat your own riskというやつだ。ウインカーとワイパーのスイッチも逆、シフトは右手で、、、、。幸いにしてアクセルとブレーキの並び方は同じだが、車の運転はやっぱり日本とはずいぶん違う。車を降りて駐車場に止め、病院までのバスに乗ればそこはもう異国の世界、、、。目に入ってくる情報は当然すべて英語であり、音も、色も、においも、風も、雰囲気も、全てがアメリカだ。知り合いに会ったりすれば、お愛想の一つも言わなくてはならない。Small Talkというやつだが、これはなかなか高等技術だ。さあ、今日も戦いだ。倒れるまで戦おう。

私は精神科の研修をアメリカで受けたわけだが、4年間の研修中に半年は内科をやらされる。指導医たちはたいてい私よりも年下で、なんだかとってもやる気がある。そういう人たちが“何?極東から来た精神科医だと?おれが1か月で立派な内科医に仕立て上げてやるぜ”かなんかいって、腕まくりをしてしごいてくれた。ずいぶん恥ずかしい思いもした。私は内科にも非常に興味を持っており、通常より長く研修を受けたほどなのだが、内科も精神科と同じで広く深く、いつまで研修を受けても達成感が得られることはなかった。アメリカでも同じだ。

病棟で内科の患者さんをケアしていたある日、中年の男性が(何の病気か忘れてしまった)病棟から逃げ出した、と小さな騒ぎになっていた。アメリカでは、患者さんが医者の指示を気に入らず、強引に退院してしまうことが珍しくないのだが、そういう時は医者は患者さんにAMA(against medical advice)の書類にサインさせる必要がある。そうしないと患者さんが亡くなった時などに家族が病院を訴えると裁判に負けてしまうからだ。アメリカにはそういった面倒くさいProcedureが沢山あり、書類を書くためだけに膨大な時間と労力が費やさされ、そのほとんどが研修医に回ってくるわけだ。このような“雑用”は、Scut Workと呼ばれる。すべてのScut Workを押し付けられるレジデントは、“北米大陸に残された最後の奴隷制度”などと呼ばれていた。(このあたりの事情は、結構面白いので機会を改めて書きたい)。

ともあれ、患者さんが無断退院、ということは、法律的にも医療経済的にも許されないため、誰かが患者さんを探しにいかなくてはならないわけなのだが、内科の研修で神経をすり減らしていた私は、患者さんに探索に立候補して大変喜ばれた。日本の精神科病棟から逃げて行った患者さんを探しあてた豊富な経験があるため、自信満々だったし、ちょっと息抜きの休憩をとりたかったという事情もある。それで、患者さんが喫煙者かどうか、酒飲みかどうかなどを聞き出したうえで、携帯電話をもって病棟を出た。

病院の敷地は喫煙全面禁止であり、病院のドアから数メーター以内の近接した場所で喫煙すると、病院に勤務している警察官に捕まるので、患者さんたちは病院の敷地では喫煙しない。地域の人たちにとっては常識だ。私が捜していた患者さんは、ヘビースモーカーであることがわかっていたため、喫煙者が沢山、まるで大麻でもやっているかのように難しい顔をしてタバコを吸うために集っている、病院からほど近い場所に行って、のんびりと患者さんを待っていた。しばらくすると、彼はてくてくと歩いてやってきて、小柄な彼は、地べたに座り込んで煙草を取り出すと、ライターで火をつけて美味しそうに吸いだした。ビンゴだ。

“で、どうしたの?” と話を切り出したところ、
“な、何でも、、”と動揺している。勝負ありだ。

先方は私が研修医であることをきちんと認識しているようだった。それでいつも精神科病棟から逃げ出した患者さんと一緒にするように、一緒に座り込んで世間話を決め込んだ。これは私にとってはお手の物だ。

彼の病気の治療の話は避け、抜け出したことを叱ることも当然せず、彼の家族の話などをもっぱら聞かせてもらった。私の経験では、アメリカの人たちは自分の家族について話すことが大好きで、写真などを嬉しそうに見せながら口角泡を飛ばして喋り捲る人が多いように思われる。そうしてわかったことには、彼は血のつながらない男の子を一人養っているのだという。彼は男の子が一人でぶらぶらとしているのを見つけ、寂しそうにしているので声をかけて話をしたらしい。患者さんは多くを語りたがらないのであまり突っ込んだ話はしなかったが、結局その子供を家に連れて帰り、面倒を見るようになったそうな。それでその子供が“お父さん”と呼ぶようになったので、自然と自分も“息子”と呼ぶようになり、それ以来奥さんと二人で実の子供として育てているのだという。その子供バックグラウンドなどは、一切知らないとのことであった。おそらく本当の話だろう。たしか、“He called me dad and I called him my son,,, that’s it. No problem.”と言っていたように記憶している。彼は煙草を吸って盛大に煙を吐きながら、ウインクをしてアメリカ人特有の大げさな顔と体のジェスチャーで、迷子の子供と親子になった日のことを説明してくれた。法律的にどうなっているのか知らないが、おそらく何とかなるのだろう。

私は一言で言って感動した。アメリカの田舎で、あまりお金もなく、身なりも整わない、高等教育も受けておらず、病気をして健康にも恵まれず、それでも頑張って生きている小柄なお父さんが、こんなに広く大きな心を持っているなんて、、、。脳タリンなのかもしれないが、私はそうは感じなかった。心の広い、懐の広いアメリカの漢なのだと感じでちょっと尊敬した。その心の広さが、私に向けられるようなことはあまりなかったようだが、アメリカにはたくさん、こんな人たちがいるんだな、ということが肌で直接感じられ、この時ばかりはアメリカで仕事をしている自分が誇らしいような、すごく恵まれているような気がしてうれしかった。

その患者さんとはその後30分ほど座り込んで話したのだが、煙草を吸って落ち着いたせいなのか、結局病棟に戻って治療を続けるということになった。私は上級医や看護師からお褒めの言葉をいただいて鼻高々であったのだが、とんだところで日本でのトレーニング?の成果が生かされたわけだ。面白かった。

その患者さんとはその後も病棟で何度か言葉を交わしたように記憶しているが、こういうひとを“Big daddy”っていうのかしら?と感じた印象があまりにも強烈で、その後の会話の内容は全て忘れてしまった。あの小さな汗臭いしょぼくれた親父は、広い心を持っていたんだなあ、、、。

アメリカには、男女を問わず、BigなHeartを持った人がいるようだ。

研修中の厳しい毎日の中で出会った、心温まる、思い出の一つだ。
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素晴らしい同僚たち 6. アメリカの研修医たち [留学]

素晴らしい同僚たち 6. アメリカの研修医たち

素晴らしい同僚たち、という表題で、思いつくままに好き勝手な内容を書きちらしている。忘れてしまう前に、書いておこうと思っているので、深く考えないでおつきあいいただけると幸いだ。今回は、アメリカの研修医のことについて、日本と比較しながら思いつくままにだらだらと書き連ねてみたい。

私が日本で精神科の研修を受けたころ、生活するのに十分な給料はいただけなかった。だから医者になった当初は、家族に援助を求めたり、貯金を崩したりして何とかしのいだのだが、当時は少しでも早くお金を稼げるようになりたい、と必死だったように記憶している。研修制度のシステムに問題があったと指摘しておきたい。日本の研修制度が新しくなってからは、研修医であっても最低限の収入は保証されてようになったようで、経済的に安定するため、安心して研修に励むことができるようになったのだろう。これは新しい制度になって改善した点の一例だ。もちろん、研修医なのに、制度の改善で最低限の生活は保障されるようになったのに、お金のことばかり気にするケシカラン奴も散見されるが、そういう奴はどんなところでもどんな時代にもいるわけで、気にしても仕方がない。研修医には、日本の将来の医療のために、また、彼ら自身の未来のために、惜しみなく働いて、勉強してほしいと強く願っている。

さて、アメリカの研修医の話だ。お金を中心としたちょっとシビアな話を書いてみたいと思う。

このブログの数少ない読者の方たちは既にご存知と思うが、アメリカでは医学部は大学院に相当するため(Graduated Schoolと称する)、医学校に行くこと自体がやや特殊かつ半分仕事のような感じのようだ。医学部は基本的には資格を取るための高度な専門学校的な側面を持ち合わせているのだが、特別に優秀な学生のために、MD・PhDコースというのがある。これは通常4年間で医学部を卒業するところを5年間以上(だったと思う)かけて勉強して、PhD(いわゆる博士号)とMDの両方を取るコースだ。MD/PhDコースに通っている、いわゆるエリートの学生さんは、学校からPhDコースで研究していることに対してお給料をもらっており、高―い高―い医学部の学費がほぼタダになっているらしい。収入と支出でプラスになるのかマイナスになるのかは確認していない。たぶん日本の自治医大や防衛医大のように、プラスになっているのだろう、と想像する。こういう人たちが将来大学に残ってアカデミックな仕事に就くのだろうと想像する。私が研修した大学病院ではそうだった。

日本においては、学位を取り終えた“ポスドク“というのは、学生のような職員のようなあまり恵まれないたちばにおかれることが多いように思われるのだが(失礼な話ではないか)、アメリカではポスドクというのはこれから独立した研究者になるという前提で、すでにして立派な職業であり、そうであるからには、きちんとした大学等の規定に従ったお給料が支払われるわけだ。話を戻すが、MD/PhDの生徒はまるでアメリカのポスドクのようなポジションが与えられているように、私の立場からは見えたものだ。青田刈りということなのか、将来の教授候補を育てるということなのか。実は何度か研究等を進めるために、医学部の内部に入り込もうと試みたが、受け入れが非常に悪かったためあきらめざるを得なかった。研究活動の幅を広げるだけではなく、本当のところ、授業に参加したり、学生さんと話をしたりしてみたかったのだ。だから本当のところはよくわからない。

MD/PhDのコースを様々な理由でやめる、ということになると、大変だ。それまでタダにされてきた、もしくはタダ同然であった莫大な学費を、自分でもしくは親が払わなくてはいけないのだ。多くの学生たちはあまり裕福ではないため、このオプション使うことは事実上不可能だ。それで必死に与えられた仕事をこなし、試験に合格して、なんとか卒業を目指すわけだ。コースをやめて、学費が払えなくなると退学するしかなくなり、だから莫大な借金を抱えることとなる。そういった何らかの理由で医者を育て上げるシステムからドロップアウトしてしまう人たちは、自殺したり失踪したりすることもあるようだ。なんともすさまじい話だ。

MD/PhDの話はこれくらいでやめておくが、普通の医学部の学生たちも、学費を借金や奨学金で賄っている人がほとんどらしい。一部裕福な親(多くは医者と思われる)をもつ学生は、良心が学費を払っていることもあるらしいが(実例を知っている)、それはあくまで例外なのだという。“何でも自分でやるのだ”というAmericanSpritも関係しているのかもしれない。だから学生は、銀行と頻繁に連絡を取り合って、“車が壊れたから買い替えていいか”“結婚にいくらかかるので、、、”などと、銀行の担当者にお金を使う(借金を増やす)相談を日常的にしている。研修医も同じようなことをしている。最初は何をやっているのかよくわからなかったが、自分も研修医を何年もやっているうちになんとなく話が分かってきた。日本とは全く異なったシステムがあるようなのだ。

学部を優秀な成績で卒業し、よい推薦状を何通ももらって、さらに医学部に入学するためにお金をため、CV(履歴書のことね)を充実させるためにアルバイトやボランティアなどやりつつ、銀行に話をつけて医学部に合格すれば、借金を増やしながらめでたく医学生になれる、というシステムがあるようなのだ。借金をした学生は、医者になる以外の道はないので、どんなことをしても大学を卒業しようとする。それが試験での不正や、教授と不適切な関係を持つ女学生などが出現する下地になっているのだと思われる。まあそれはいいとして、銀行は何も心配せず、求められるままにどんどんお金を貸せばいい。レジデントになれば、レジデンシーのプログラムが生活費をカバーするし、卒業すればローンでの返済が始まるわけだ。私がアメリカにいたころは、医学部を卒業するまでに1500万円前後の借金を持っている学生がほとんどだ、と聞かされた。レジデントをしている間は追加の借金が可能で、返済は猶予される。卒業と共に返済が始まるわけであるが、借金の利子は、借り入れたお金より多額になるのだと聞いた。多くの医学生やレジデントは結婚しており、子供を育てている人も珍しくないため、金銭的な背景はさらに複雑怪奇な様相を呈する、というのが実情なのだと思われる。なんだか恐ろしいシステムだ。しかしこのシステム(銀行が医師の教育を支援しつつ利益を得るシステム)が機能し、研修医が卒業して医師として仕事を始めることができる限りは、医師~銀行の間に、いわゆるWin-Winの関係が成立するわけで、銀行は高い利子を小さなリスクを侵すのみで回収し、医者になりたい人は、努力さえすれば、借金をしながら夢を実現することができるわけだ。アメリカにおける医者の社会的地位は高く(専門医の数をコントロールしたり、ホワイトハウスに対してロビー活動をしたりするなど、地位を保つために大変な労力が咲かれているようだが)、物価と比較して収入も高いため、このような道を通ってでも、医者になることは意味があるのだろう。

アメリカでは、まだ若いうちに事業などで一山当ててリタイヤし、その後の人生は貯金と年金で生活し、パーティーに明け暮れる、というのがアメリカンドリームの一つの典型なのだが(私は尊敬していた医師がこれをやったのを実際に見て失望したが、周りは羨むだけで見下げるようなことなく、文化の違いを身をもって感じた)、恐ろしいほど多額の借金をしながら独力で医者になることも、おそらくアメリカンドリームの一つなのだろう。

レジデンシーに入り込むときには、試験を沢山受けたうえで、全米を回ってレジデンシーに採用してもらうための面接を受けるのだが、“借金がいくらあるか”というのは、試験を受けに集まった研修医たちが好んでする話題の一つだった。私が怪しい英語で“オレ借金とかないし”というと、みんな苦々しい顔をして羨んでいたことをよく覚えている。そういったバックグラウンドを持っているため、研修医たちはレジデンシーを卒業するために何でもやる。死ぬほど勉強するし、雑用もいとわないし、いつもにっこりと笑顔を絶やさないし、指導医に対して“No”ということはほぼ絶対にない。弱い立場に立たされているのだ。私が研修をした田舎の大病院では、あまり競争は激しくなく、全体に割とFriendlyな雰囲気が漂っていた。脳外科の有名な教授にぼこぼこに(言葉で精神科医全般をひどく侮辱された)されたときなどは、精神科が科を上げて抗議してくれたりした。そんなこともないわけではないが、研修医が弱い立場に立たされていることがわかっていながら、いたぶるような指導教官もいた。我々が結託して、病院長にチクるようなことも可能ではあるが(実際に経験した、そのうち書くかも)、多くの場合、ただただ叩かれるのを我慢するしかない。一方で、まともな教官は、我々(私自身はほんとは違うのだが)が引くに引かれない、命がけのような立場にいることをわかってくれているので、自分がかつて通った道でもあるし、我々を何らかの理由で叱責したり追い詰めたりするときは、必ず逃げ道を用意してくれたものだ。アメリカの研修医を追い詰めるときは、気を付けないとヤバい。時に彼等が死んだり殺したりする、というのはそういう背景があるからだ、と理解している。

だから、一緒に“ヤバい橋”をわたった、レジデントたちの結束はものすごく強い、というのは理解がしやすいだろう。人によるとは思うが、医者同士が会うと、どこでレジデントをしたかといった話がよくなされるのもこういった背景があるからだと思う。同じプログラム出身だとわかった瞬間、ハグと握手の嵐、時にはキスも降ってくるのは、当然と言えよう。

主に医学部の学生の話に終始してしまった。今後も、思い出したことから、お金以外の面からも、アメリカのレジデントの話を、どんどん書いてゆこうと思う。

今回もキーボードの赴くままに書き飛ばしてしまったので、そのうち手を加えるかも。

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予後不良 a-1 [留学]

予後不良 a-1

長期間国外で働いた人間が日本に帰ってくるとどうなるか?

答えは簡単、“不適応“だ。そのことについてすこし書いてみようとおもう。

私が帰国してまず初めに感じたこと、、、まず成田空港でびっくりした。様々な事情で長期間ほとんど帰国せずに米国に身を置いたためか、懐かしい成田空港は異国のように感じられ、自分の国に帰ってきたような気がしなかった。まわりにいる我が同胞たちはすごく小柄でやせていて、しかも身なりがよく清潔、これはまあ日本としては普通だろう。しかしなぜだかどこもかしこも、人も景色もなんだか色彩がくすんだように見えた。おかしい、これが自分の国なのか?自分は色盲かなんかになってしまったのか?というのが正直な感想だった。もちろん時差ぼけの頭でも周囲に飛び交っている全ての日本語を理解できたし、お店に入って出てくる料理の量も控えめだ。空港内は清潔で、身なりの悪い人や薬でトリップしているような人も見受けられない。安心安全な日本国内の雰囲気が漂っているのは間違いない。しかしおかしい。

空港内のレストランでラーメンを食べてみた。みんな嬉しそうにツルツルやっている。当然自分もそうした。だってここは日本だから。アメリカでは外食で麺類を食べるときに音を立てて食べることはほとんど“犯罪“であるため(私はそう感じていた)、ラーメン屋さんで久しぶりにツルツルやるのは楽しかった。そばにいたアメリカ人のおやじたちが(白人2、黒人1)”信じられない!“と白目をむいて怒っていた。わたしは”ザマミロ!ここは日本だぜ!“と快哉を叫んだ。やっぱり私は日本に帰ってきたのだ。ここは日本なのだ、と自分を納得させようとした。

それで空港から電車に乗ってみた。電車は時間通りに駅に到着して車内のほとんどの人は日本人だ。だってここは成田だからね。しかしやはり色彩がおかしい。全体に灰色がかっているというか、、、。帰国を楽しみしていた私は、改めて強い違和感を感じた。まわりの人たちが小柄でやせている、というのは、日本人としては長身の私にとって珍しいことではないのだが、それにしてもみんな“小さすぎる”、と、感じて落ち着かなかった(小柄な人ごめんなさい)。周囲の人からは、いかにもアジアのおじさん然としている外見の私は、問題なく周囲に溶け込んでいたのだと思うのだが。

それでつりさげ広告などをしげしげとみてみると、そこに登場している若いタレントさんなど、知らない人が多く、読んでいても全然面白くない。書いてあることを理解はできるのだが、誰と誰が離婚した、とか、自分の知らない情報が当然のように書かれてている。“浦島太郎”の気分がよく分かった。しかしアメリカから持って帰ってきた様々なカードやお金をそのまま使うことができたので、やはりここは日本だ、と自分を納得させることはできた。

a-2 に続く

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ある日の出来事 –オヘア空港のジョン- [留学]

ある日の出来事 –オヘア空港のジョン-

ちょっと凹んでいるので、書いていて自分が元気になれそうなバカバカしい出来事について書いてみようと思う。

あれはたしかシカゴのオヘア空港だったと思う。知っている方も多いとは思うが、あの空港はものすごくだだ広くって、飛行機のダイヤはものすごく狂っていて、でっかいアフリカ系の人たちがものすごくたくさん歩いていて、結構やばそうな人とお金持ちそうな人が混ぜこぜになっていて、、、とにかく混沌としている空港なのだ。しかし仕事で数えきれないほどあの空港を使ってきた自分にとって、なんだか懐かしいホームグラウンドのようなところになっている。それはさておき。一見理解不能なレベルに混沌としている空港は、セキュリティチェックを受けて内部に入ってさえしまえば、飛行機を待つロビーのようなところが長い廊下の両側に整然と並んでいる、単純な設計になっている。そのロビーの合間、壁のようになったところの裏側にトイレがしつらえてある。そういう作りになっている。今回はトイレに関する話だ。食事中の方は読み進まないようにお勧めしたい。

知っている人は知っているが、アメリカの男性用のオシッコ用のトイレはかなり高いところに取り付けられており、私も最初はびっくりした。これに並んで壁を向いて虚空をにらみ、孤独な感じで用を足す。両隣に地元の方と思われる背の高い人が並ぶと、私も背丈が高いのでひけはとらないのだが、お尻の位置が二つくらい違う。もちろん地元の人のほうが高いのだ、つまり足が長い。なんだかコンプレックスを感じてしまうので、アメリカで人様と並んでオシッコをするのは、だからちょっと嫌だった。大のほうはおそらく犯罪を防止するためと思われるのだが、下の方がスカスカになっていることが多く、用を足している人の膝小僧の寸前まで外から見えてしまったりする。観察してみると結構面白く、下着をつけずにジーパンをはいている人とか、用を足すときにズボンを全て脱いでしまう人とか、鞄をトイレの床において、その上に靴を履いた足を乗せてことにあたっている人などを観察したことがある。そういったことの持つ意味について、深遠な考察を述べることは機会を改めることにして、今回はジョンとオシッコのことを書いてみたい。重ねがさね尾籠な話で恐縮だ。

私が空港で尿意を感じて、いつものように清潔そうで安全そうなトイレを五感をフルに活用して探し出し(いろいろと大変なことになっているトイレは珍しくない)、入ってみたところ便器の前は長蛇の列だった。大きなコンサートでもあったのだろうか?良く分らないが、地元の人と目される、大柄なおじさんたちが長い列を作っていたわけだ。仕方がないので私もその列のお尻に並んだ。それで自分の番を我慢強く待っていたのだが、そのうちの一列だけ、全く前に進んでいかないことに気が付いた。一番前には小柄なご老人が立っており、プルプルと小さな背中を震わせながらなんだかぶつぶつと話しているようだ。耳をそばだてていると、“俺は前立腺なんだ”“ダメなんだ”“時間がかかるんだよ”“ごめんよごめんよ”“迷惑をかけて”などとぶつぶつとつぶやきながら首を振っている。彼の背中には、孤独感とかわいそう感が濃厚に漂っている。

それでも周りのオッチャンや兄ちゃんたちは意外と優しく、自分の番が終わると彼の背中を叩いたりして、ひと声かけて去ってゆく。しかしご老人はなかなか用をたせないようだ。そうするうちに彼の名前がジョンであるらしいことがその場に居合わせた同志?達の知るところとなり、数人のオッチャン達が“頑張れジョン”“負けるなジョン””大丈夫だジョン”などと盛んにかけ声を駆けだした。ここはコンサート会場か?どうもなんだかノリがいい。それでみんな自分の用を足し終えると、彼の背中をぺしぺしやって去っていく、、、。いーい感じの一体感が漂って、まるで飲み屋で仲間と懐メロを歌っているような盛り上がりだった。公共の場なのに。トイレなのに。

それで今度は自分の番だ。“ごめんよ、前立腺が、、”律儀にもジョンは隣に並んだ私にも謝罪する。前は隠さず、ペロリと出したままだ。私はすかさず“いえいえお気になさらず、ごゆっくりどうぞ“と頭の中で作文した英文をタドタドと喋り、いそいそと自分の用を足し、少し軽くなってから、手も洗わずにジョンをペシペシしてトイレを後にしたのだった。なんだか地元の人間になったみたいで楽しかった。魔法のようなアメリカンな瞬間をその場に居合わせた同志たちと共有できた。こんなことは日本では起こらないんだろうな、と思った。


うーん、ネタはいいと思うのだがうまく書けない。不調だ、、、。
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