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素晴らしい同僚たち 3. ニューメキシコのS:洋の東西を問わず若者はお金に苦労する [留学]

素晴らしい同僚たち 3. ニューメキシコのS :洋の東西を問わず若者はお金に苦労する

Sは子連れの女医さんだ。お父さんは不法入国?のメキシコ人、お母さんは白人の弁護士さん、といったちょっと複雑な家族背景を持っている。詳細は失礼なので聞いたことがないが、メキシコ国境にほど近い米国南部に住んで、恵まれない人たちに法的な援助の手を差し伸べていたお母さんが、メキシコ人と恋に落ちて結実したのがSで、なんともロマンチックな話なのだが、Sご本人は失礼だがあまりロマンチックな人には見えず(失礼)、色は白いが大柄でふくよかなメキシコのオバサン、と言ったところ。田舎のオバサン的なおだやかな雰囲気を漂わせており、会って話すと安心した。

この人もお母さん同様にボランティア精神にあふれており、二人の子供を産んだ時にずいぶんつらい思いをしたらしく、何がどうしてそうなるのかは語ってくれなかったが、“精神疾患をもった人たちの出産を助けたい”と考えるようになり、私と同じ大学病院にある家庭医学と精神科の複合プログラムで研修を始めることになった。このプログラムはFP-Psych(エフピー・サイク)と称され、心身両面の研修を積まなくてはならないため結構忙しく、その期間も5年間と一般のプログラムと比べると長い。彼女は上述したようにすでに子供が二人おり、夫は定職についていなかったため様々に多忙であった。よく言われていることであるが、レジデンシーは最初の数年が大変で(多くの人たちが嫌がるような、様々な意味で厳しい研修が初年度や次年度に多い)、上に上がるほど楽になるのだが、Sは家庭と仕事の両立が困難となり、FPかPsychのどちらかを選択することを迫られて、結局FPを捨ててPsychのレジデントになることを選んだ。めでたく?私の同僚の一人となったわけだ。内部に入り込んでから知ったことだが、専門性が低いためか、FP(家庭医学)のレジデントのポジションはあまり人気がなく、私が所属した大学病院の中では、当時もぐりこむのが一番簡単なレジデンシーの一つだった。だから医学部時代に学業成績が今一つだったなど、何らかの問題を持っているような人は、まずFPにもぐりこんで、一年間頑張って個人的な評価を上げ、その後に希望のプログラムに変更する、というようなことをする。多くの米国の研修医や医学部生たちは必死なのだ。だからSのようにレジデンシーの途中でコースを変更することは珍しくない。このあたりの事情は、別に章を設けて書こうと考えている。

レジデントたちにはアメリカ人たちの一般的な水準を鑑みると結構な収入があり、日本のように“修行中の身の上”ではなく、りっぱな“職業”とみなされていた。ご存知のように米国は経済的な二極分化が極端に進んでおり、例えば高卒で特別の資格を持たない一般的な米国人の生活はお世辞にも“豊か”とは言えないものであった。その状態から抜け出すことは、よほどの幸運に恵まれるか、人並み外れた努力をするか、特別のことがなければ難しいようだ。愛すべき我が極東の小国とは、別の意味で深い闇を抱えた国家なのだ。そんなわけで、贅沢さえしなければレジデントが家族を養うことは十分に可能で、実際に家族を養っているレジデントはかなり多く、Sもそのうちの一人であった。夫と子供二人を借金しながら養っていたわけで、なかなか立派だ、と密かに尊敬していた。英語でbread-winnerという表現がある。日本語でいうとおそらく一家の大黒柱という言葉がこれにあたると思うのだが、Sはそういう役割を自ら選び、淡々と生きていた。鼻息はちょっと荒かったが。

私の理解している限りにおいて、米国のレジデントたちの経済的なバックグラウンドはあまり恵まれているとは言えなかった。前提として、医学部というのはgraduate-school、つまり大学院にあたるため、まず普通の学部を卒業しなければならないわけだ。この段階までは奨学金を受け取ったり、親から経済的な援助を受けたりして卒業する人たちがけっこういるようだが、学部を卒業するためにすでに銀行からお金を借りている人たちもいた。この間に何らかの形で高い評価を受け、推薦状を沢山もらって医学部に進学するわけだが、このあたりから医学生たちの借金人生が始まると聞いている。医学部の学生にお金を貸せば、利息を含めてお金が返ってくる可能性が極めて高いため、銀行は先を争ってお金を貸したがる。高い学費、生活費、その他の雑費など、銀行は医学生が卒業するまでに1-2千万円のお金を貸してくれるのだという。当初の設定でお金が足りなくなると、医学生たちは銀行の担当者と話し合って、例えば壊れた車を中古車に買い替えたりする。そのたびに難しい顔をして銀行と電話をしている学生やレジデントの様子を観察したことが何度かある。うまくいくと、“これでWifeの車を新しくできる!”などと、晴れ晴れとした笑顔で話してくれたりしたものだ。

レジデントになると、それなりの給料を受け取るようになるのだが、卒業までは、借金の返済を待ってもらえるようだった。もちろん利息は付くわけだが。失礼にあたるので、個人的に詳しく事情を聞いてみたことはないけれど、返済の利息は、元金をはるかに超えるそうで、銀行はいい商売をしていると思った。一旦卒業してしまえば米国医師たちの社会的地位は日本と比べてはるかに高く、給与水準も高いので、まじめにやってさえいれば返済に困るようなことはない。上手くできている。しかしなんらかの問題を起こしたり病気になったりしてしまうとこのスキームから脱落してしまうことになるわけで、残るのは借金ばかりだ。身のまわりで悲惨なことになった話を聞いたことは幸いにしてない。こんな事情があるから、医学生やレジデントたちは命がけで勉強や研修に取り組むわけだ。日本とは事情が違う。真剣さが違う。本来の意味で生存競争にさらされているといってもいいのかもしれない。このような背景を知ることなしに米国の医学教育のありかたを理解しようと試みることは間違っているといえるだろう。そんな人生における厳しい時期に苦楽を共にした同僚たちは、お互いにとって忘れられない存在になることはある意味当然だ。私自身はそのような生存競争から一歩引いた立場に身を置いていたため、時に罪悪感を感じるようなこともあったけれど。

話を戻す。そのような背景を持ったSは、夫や子供の面倒を見ながらレジデンシーに奮闘していたわけだが、子供の世話はやはり大変そうだった。信頼できる評判の良い保育所に子供を預けると、月に確か5-6万円請求されるのだが、お金の実質的な価値は実質的に日本の倍程あるため(田舎なので贅沢さえしなければ物価が安い)、これはかなりの負担だ。Sはお金に余裕がなかったので、基本的に彼女の夫が子供の面倒をみて、夫が何らかの仕事(コーヒー屋さんなんかでバイトをしていた)をしているときにはSは子供たちを職場に連れてきた。私は子守はあまり得意ではなかったのだが、彼女の娘は宮崎駿が好きで、三鷹にあるジブリの美術館に行ったことがある、なんていうので、なんとかかんとか話を繋いで短時間なら面倒を見ることができた。本場の日本でナウシカの漫画を買ってきてそれをプレゼントしたときにはずいぶんと喜んでくれた。仕事用のPCを叩きまくってゲームをするのには参ったけれど。

Sは身なりに構わず、髪はザンバラ、メガネは丈夫だけが取り柄の男がかけるようなごつい黒メガネでコンタクトの使用などは考えたこともないらしい。しかも安物の分厚いレンズがついており、お世辞にもファッショナブルではない。洋服は地元の安いスーパーで仕入れ、ブランドものを持っていたり、着ていたりする様子を見たことがない(ほとんどの同僚たちがそうであったが)。それでかなり太っているので、同僚たちにはあまり人気がなかった。人柄のいい人なのに残念なことだ。レジデントたちは皆、“経済的だから”といった理由で家を買うのだが、彼女もその例外ではなかった。卒業したときに値段が上がることを期待してレジデントを始めるときに家を買うわけた。彼女自身の言葉によれば、“古くて汚くってじめじめしている。地下室(basement)にはとても入れない”とのことであった。“人を招待するなんでとってもムリ”ということで、一度も家に招待してくれなかったことは残念だった。その後その家は、Sが卒業するときに、かつてそこに住んでいた人の親せきが、懐かしがって買ってくれたというが、その話を聞いたときは、他人事ながらほっとしたものだ。

助け合いながら(実際はもちろん助けられることが多い)結構仲良くやっていたのだが、突然別れ?はやってきた。Sは、お母さんから受け継いだ血が突然騒ぎ出したらしく、“法律をやる”と言い出したのだ。それには訳があり、Forensic Psychiatry(司法精神医学)の専門家、弁護士と精神科医のあいのこのような、BMWのSUVに乗った、颯爽としたものすごく美人のG先生が大学にやってきたからだ。この分野の専門家はそれまで大学にはおらず、着任早々に流暢なプレゼンを繰り返して我々を魅了した。ファンがたくさんできた。しかし分野が特殊であるため、G先生に師事しようというレジデントはなかなか現れなかった。実際、私にはどんなことをする学問なのか、想像もできなかった。私が治療していた患者さんが法的な問題に巻き込まれたときに、法律的な相談に乗っていただき、助けてもらったことがあるくらいだ。"Don't worry, my dear"なんて言ってハグされたときは、ドキドキして死ぬかと思った。ともかく、G先生は研修するレジデントを大募集していたのだが、最初に手を挙げたのが、なんと我が親愛なるSだったのだ。“あたし、やる”などと言いながら、あまい整わない身なりでG先生のオフィスに行って鼻息を荒くして弟子入りを申し込んだものだ。幸いG先生の受け入れは良好で、Sは目出度くForensic Psychiatristとしての一歩を踏み出すことができた。どんなことを学んだのか、私は研究に軸足を置いたレジデントであったため、よくわからない。そんなわけで、残念ながらその後、Sとの付き合いは薄くなってしまって、たまにあった時に話をするくらいになってしまった。

Sはレジデンシーを終了した後、司法精神医学の道を突き進み、最近は特に医療訴訟関係の問題をかかえて苦しんでいる人々のために奉仕する毎日を送っているようだ。“近くによったら遊びに来てね。マジで言っているのよ、わかる?”と最後に会った時に言ってくれたことが印象に残っている。今思えば、Sにはずいぶんお世話になった。元気でやっているだろうか?たぶん今でも鼻息荒く毎日頑張っているのだろう。 ありがとう、元気でね、S。
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