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1-1.医者になるって? [留学]

1-1.医者になるって?

ひとはいろいろな理由で医者になるようだ。入学するのが難しいからという理由で医学部を目指す人、大学院に進んで研究したい人、医者になってお金持ちになりたい人、有名に?なりたい人、人の役に立ちたい人、優雅に暮らしたい人。みんなさまざまな理由で医者になる。医者を私の独断と偏見で大きなグループに分けてみると、真実をどこまでも追求したい学究型、治療に専念したい赤ひげ型、お金や権力を手に入れたい政治家型、それからユニークなライフスタイルを追求したい芸術家型、そんなところだろう。いろいろと人生を失敗してからこの道を選んだ私は、上記から選択すると赤ひげ型になるだろうか。人様のお役に立つことが私にとって職業上一番大切なことだと思っている。

とある人生の選択に派手に失敗して数年を無駄に費やした私は、当初は比較的消極的な理由で医者になる事を選んだ。そういうわけだけだからなかなか勉強に身が入らず、全くどうも情けない医学生だったと思う。精神的にもバランスが悪く、脆弱なくせにこだわりが強いので、さぞかし面倒くさい奴だっただろうと思う。学友たちよ、その節は大変お世話になりました。しかしともかく、医学部は夢破れた私を受け入れてくれた、救ってくれたのだ。全く運が良かった。ありがたいことだった。

危なっかしい学生生活を送ってなんとか進級し、いよいよ臨床実習が始まったある日、私と私の相棒は精神科に割り当てられた。彼は体格の良いスポーツマンであり、やる気と体力に満ち満ちた、心根のきれいなとてもいい奴だった。彼にはいろいろな意味で助けてもらった。彼は気が付いていないだろうけれど。どこかで会う機会を持てるのなら、あの頃の事をいろいろと話しあってみたいものだ。話が飛んでしまったが、この頼もしい相棒が“精神科がコワイ”というのだ。冷や汗を流して涙ぐんでいる。理解に苦しんだが、いつも彼にお世話になっていた私は、我々二人に割り当てられた実習のほとんど全てを受け持つことを承諾した。もちろん彼にも単位取得に必要な最低限のことはやってもらったが。

詳細は避けるが、私たちに割り当てられた患者さんは、比較的若い統合失調症の女性だった。挨拶に行くと陽だまりの中でベッドに座り込み、よだれを垂らしてボーっとしていた。ヘッドホンをして、ものすごく大きな音でなんだか激しい音楽を聴いているようだった。何を話したわけではないが、私にとってこの光景は非常にインパクトがあり、結果的にこの後の人生を左右することになってしまった。

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1-2.医者になるって? [留学]

1-2.医者になるって?

そのよだれを垂らした身なりの整わない女の子をみて、理由はわからないがなんだがジーンとしてしまい、我知らず涙がにじんだ。相棒にばれないように気をつかったことを今も覚えている。その後の数週間はこの患者さんをなんとか理解しようと最大限努力したが、カルテを読んでも、教科書を読みこんでも、図書館で調べ物をしても、患者さんとどんなに長時間お話をしても、この人の頭の中で何が起こっているか、理解できた気はしなかった。強い不全感にさいなまれ、担当の先生と何度もお話しした。申し訳ないが私の理解はほとんど進まなかった。内科や外科領域なら、多くの場合、病気の原因とか発症の機序のようなものは大体わかっており、検査結果に基づいて診断基準を適用すれば診断が確定し、どんな治療が適切なのかガイドラインが教えてくれる。予後なども、疾患やその進行度によってある程度の予測を付けることができる、と言っていいかと思う。それを裏付ける科学的なデータも豊富だ。いくらでも手に入る。

しかるに精神科の疾患の場合は、そもそも病気の原因がわかっていないことが多く、診断は、診断基準らしきものは当時も既にあったが、担当医の主観が診断に反映される傾向が色濃く残っており、治療のほとんどは対症療法で、診断も治療も担当する医師によってものすごく違う、といった、科学としての客観性をやや欠いているかのように感じられる医療が行われていた。現在の精神医療も、そこから大きく変わることは無いように思うのだが、私が学生だった当時はその傾向がさらに強かったようだ。そんな背景も関係していたのだと思うが、私はすっかり考え込み、ついにはふさぎ込んでしまった。全然わからない。怠惰な医大生だった私はどうしたか?いきなりアポも取らずに一人で大学の医局に足を運んだ。不真面目と思われている自分がそんなことをするのは自分でも意外であったし、正直恥ずかしかった。しかし内的な不全感がそれをはるかに凌駕して、私の尻に蹴りを入れたようだ。それで私は実習終了後に精神科の医局に足を運んで先輩方にいろいろと相談し、山のような本をお借りした。ほとんどすべての人が、なぜか私には親切だった。医局の隅の空いている机を一つ借りて眠気覚ましの濃いコーヒーを秘書さんにもらい、貸していただいた本を片っ端から読んだ。しかし精神科の本はわけのわからない専門用語で満ち満ちており、読書は遅々として進まなかった。ものすごくつらかった。しかし週末も医局に通い詰めた。

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1-3.医者になるって? [留学]

1-3.医者になるって?

毎日あたまがボーっとするまで本を読んだ。内容は正直あまりわからないけれどとにかく読み続けた。本棚を一つ二つ読了したころから医局の先輩たちの態度が変わり、私を精神科に勧誘してくれるようになった。ありがたいことだ。いろいろと医師としての将来のことなど教えていただき、たくさんの本をお借りして、勉強させていただいた。それまでは医者という仕事を消極的に選択した劣等感の強いダメ学生の私だったが、これ以後完全に人が変わってしまい、実習に打ちこむ模範的な学生になってしまった、自分で言うのも恥ずかしいけれど。おそらく一番びっくりしたのは教官たちだろう。結局このような数か月を過ごしたのちに、精神科に進むことを心の中で決めた。

家族も数少ない友人たちも反対する人が多かった。家族は“役に立たないじゃないか!”を私をなじった。精神科の先輩方のなかにさえ、精神科を選択することを勧めなかった方もおられた。いわく、“大きな体をいかせ”とか、“儲からないぞ”とか、“つぶしがきかないぞ”とか。確かにそうだったなあ、と今になって思うがもう遅い。当初は手先の器用さに加えて、立体解剖の知識を比較的豊富に持っていた(つもりであった)ため、迷うことなく外科に行って人様のお役にたとう、と考えていたのだが、180度の方向転換をすることになった。その後も依怙地な私は心がわりすることなく精神科を選び、今日に至るまで精神科の医師として修業を続けている。損ばかりしているような気もするが迷いはない。

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2‐1.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐1.研修医ってわるくないかも

そんなこんなで外科から精神科に志望を変え、無事に大学を卒業した私なのだった。卒業試験や国家試験はそれなりに大変ではあったが、劇的な出来事は皆無であり、面白い話でもないのでここには書かないことにする。

卒業後、どこでどんな形で臨床研修をするか、というのは非常に大切な選択だ。いろいろと調べてみたところ、母校を研修場所として選択した場合、私がやってみたい分野を教えてくれる先輩がいないことが分かった。事前に調べておいてよかったと思うが、しかしそれでは精神科を選ぶ意味がないではないか。どうやってこのハードルを越えればいいのだろう。医師としての小さな一歩を踏み出す前だというのに、前途に大きく真黒な暗雲が立ち込めたような気持ちになってしまった。やっぱりやめたほうがいいんだろうか?詳細は省くが、いろいろな先生方に相談して、お願いしてお力をお借りして、おそらくご迷惑をおかけしたこともずいぶんあったものを思われるのだが、最終的には、都会にある、とある大学の医局に入局させていただくことになった。当時は最近とは事情が全く違っており、個人的に業界にコネを持たない私のような人間が、母校を離れ、母校の影響力の及ばない土地で臨床研修をするということはあまり一般的ではなく、それなりに勇気のいる選択だった。しかし私は当時“気合が入って”いたため、全く気にならなかった。私を受け入れてくれた大学は、私にとっては憧れの名門校のようなところであったため、入局の許可が出た時には、うれしかったと同時にずいぶん緊張したものだ。当時お世話になった先生方には、今でも頭が上がらない。私の場合、やはりいろいろな事情で身体科の研修をしてから精神科を始めることとなった。それでその後の私の医師としての進路が決定付けられた。

大学に入局するとさっそく研修が始まるわけだが、精神科の場合、特に優秀な人は“精神科をストレートで研修する”のが良い、とされていた。私のように、なりゆきで身体科の研修をすることになった人間などは、“精神科医としての感覚が鈍る”といって嫌われた。つまり二流扱いされた、といってよいかと思う。私の場合、現在の初期研修医のように、2年間内科外科を問わずに広く浅く研修したのだが、そのことを、“精神科医として大きな損失”などと一部の先輩に言われてとても悲しい気持ちになったものだ。“身体科を1年やれば結構ダメになってしまうのに、2年もやったらもうとうてい取り返しがつかない”と言われたこともあった。ずいぶん厳しいことを言ってのける先生もいたものだ。

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2‐2.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐2.研修医ってわるくないかも

そうではあったが、大学を卒業すると法律上は先輩方と同じ医師になったわけで、能力に限りはあるが、責任をとれる限定された範囲ではあるけれど、治療に参加する権利が手に入ることになる。点滴からはじまる手技、診断や治療の知識や技法、勉強すれば勉強するだけ自分が進歩していくことが手に取るように感じられるため、毎日が楽しかった。当時は、頑張れば報われる、という理想の世界に住んでいるような気がしたものだ。もちろん現実はそんなに甘くはないのだが。例えば点滴の技術など、上達すれば患者さんに直接喜ばれるわけで、“あの点滴が上手な背の高い先生お願い”などと指名されると、天に上るほどうれしかったものだ。そんなこんなで毎日多忙で私生活は皆無であり、家族には迷惑をかけたが、医師としては大変充実した毎日を送ることができた。当時の同僚や指導医の先生方、ありがとうございました。精神科とは全く関係ない科を回っている時でも、本気でその科にのめりこんで一定期間頑張ってさえいれば、だんだん楽しくなってやりがいを感じたし、上級医は仕事ができる、努力を惜しまない研修医をたいていは大切にしてくれるものだ。

内科の中でも循環器科には苦労した。優秀な医師が集まることが多い科なのだが、私の個人的な見解によれば、独特な“文化”と雰囲気を持っているように思われる。自分が優秀だ、とはつゆほども思っていなかった私にとっては“文化的”にも若干馴染みにくい部分があったし、患者さんに感情移入することも当初は難しかった。それで、何とか事態を改善しようと、休みをつぶして病院に泊まり込むことを繰り返した。そんな毎日を送って数か月したところで、指導医が研修の延長を提案してくれた。そうすれば、より多くの手技を任せ、治療の選択権を与えてくれるという。これは当時の私にとって大変ありがたく、魅力的な提案であり、涙が出るほどうれしかった。その先生には今でも深く感謝している。(こんなのばっかりだ。)そのまま循環器科の医師になってしまおうか、と考えたりもした。それでどうしたか、ということなのだが、当時は素朴で素直であった私は、精神科のボスに、いきなり相談しに行った。いまではボスの当時の気持ちを理解できるのだが、ボスはなんとお怒りになられ、“今すぐ精神科にこい”と、内科延長を許してくれなかった。業界のヒエラルキーの一番下、初期研修医であった私は、ボスに逆らうことはつゆほども考えず、“わかりました”と答え、誘ってもらった宴会に出席して、数週間後には精神科の研修を始めていた。我ながら素直ないい子だった、ように思う。

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2‐3.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐3.研修医ってわるくないかも


精神科の初期研修は、なかなかハードルの高いものだった。公立病院で研修したため、指導医たちは多忙で時間がなく、早朝から時には深夜まで働きづめに働いていた。だから私の教育に割く時間がない、ということになる。簡単なインストラクションを与えられ、体系的な指導などはほぼ与えられないままに、ほぼ独力で患者さんを担当することになる。実際は、上級医たちは遠巻きにして、私のすることを温かく見守ってくれており、問題があるようならやさしく指導してくれたのだが、当時の私は余裕がなく、そのようなありがたい指導体制について気が付くことは無く、砂漠のようなところを一人で歩いているような気がしていた。

外来はある程度一人で診断や治療できる医師でないと務まらないので、まずは病棟、入院患者さんのお世話から、ということになるのだが、私は不安で不安で仕方がなかった。そうではあるが、同時に、オレはようやく精神科医になれるんだ、と、ずいぶんうれしく、興奮していた。早く一人前になりたいものだ、と強く願っていた。こんな文章を書いていると、当時の気持ちがありありと蘇ってくる。いま現在の初期研修医の人たちはどんなふうに考えているのだろう。興味があるなあ。

数名の患者さんを指導医とともに担当することになったのだが、これは簡単ではなかった。診断も、治療も、何を基準にどうやって決められているか不明瞭な部分が多く、何が正しく何が間違っているか、精神科を始めたばかりの自分には、判断のしようがなかった。一番怖かったことは -これだけは忘れようがないのだが- 患者さんを我知らず傷つけてしまうことだった。精神科の患者さんたち、それも入院する必要があるような人たちは、多くの場合、自分を適切に守ることができない。だから彼らに接触する私たちが、彼らの分まで気をつかって、精神的な負担をかけないよう、最大限の努力をする必要がある、と少なくとも私は考えていたし、今もそうだ。これは治療以前の問題で、精神科にかかわる全ての医療者が守るべき原則だと思っている。だから私は毎日朝早く出勤し、夜遅くまで病院に残っていることが多かったのだが(真面目ではあったが宴会にはまめに顔を出していたことを告白しておく)、内的には、病院で仕事をすることが怖くて仕方がなかった。医師として半人前の私が患者さんを傷つけてしまったらどうしよう、と。そんな私を救ってくれたのは、いつだって現場の看護師さんたちだった。

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2‐4.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐4.研修医ってわるくないかも


研修医なら誰でも経験することなのだと思うが、指導医や同僚たち以外で若い医師が直接接触する人たちといえばやはり看護婦さんたちであり、彼らと仲良くなることができるかどうかで仕事のしやすさが格段と違う。このことはおそらく、現在でも変わらないだろう。医学は実学なので、医療の現場を経験している、ということは大きな意味のあることなのだ。だから本来あまり有能ではない医師であっても、長期間臨床に従事していれば、かなりの臨床能力を持った医師に成長することが可能となる。すべての医師がそうなる、というわけではないが。話を戻す。私は研修医になった時点でけっこうな年だったのだが、それまでに紆余曲折を経ており、自分としては謙虚な態度で研修に望んでいたため(異議を唱える当時の上級医の先生方も多数いるかもしれないが)、自分より物を知っていて、経験がある人は誰でも自分の先生だ、と考え、なんでも素直に教えてもらった。少なくともそうしようと努めていた。心理士、技師、ソーシャルワーカー、医療事務の人たち。しかし何といっても指導医以外で一番の先生は、やはり看護師さんたちだった。毎日緊張して冷や汗をかいたり涙ぐんだりしていた私に声をかけ、励まし、時には宴会に誘ってカツを入れてくれた。“疑問をそのままにしておくのはよくない”などと指導してもらったこともあり、それらの無数の教えの中には、今でも日常的に意識せずに使っているものもある。ありがたいことだった。そんな形で私の精神科研修は始まったのだった。

このブログは書きたくて書いているのですが、目的がないわけではありません。後進のお役に立ちたいということです。もし、こんな話を読んでみたい、ということがあれば、コメント欄にリクエストしていただければお応えしようと考えています。気軽にコメントしていただけると嬉しいです。

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3-1.精神科って楽しいかも [留学]

3-1.精神科って楽しいかも

そのような経緯で精神科の研修を始めた私なのだが、よき指導医や気のいい看護師さん、さらには優秀な同僚たちに恵まれ、毎日が信じられないほど楽しかった。精神科の場合、正直に言えばClear cutに患者さんが良くならないことが多いため、ストレスがないと言えば嘘になる。しかしそれでも自分が医師として成長していることを実感する瞬間があり、単純でわかり易い生きがいを感じることができた。体を使って肉体労働をして、報酬を得ている感覚に近いと思う(私は肉体労働のバイトをずいぶんしてきたので良く分る)。

勉強して、患者さんのお世話をして、たまに(しょっちゅうという説もある)宴会に参加して暴れ、そういった健康的で単純な生活を“猿のように”繰り返した。臨床で超多忙であり、勉強にあてる時間は残念ながらほとんど作れなかったが、体系的に何かを教えてもらえる機会が乏しかったため、何とか無理やりにでも時間を作って本を読んだ。宴会をやめればいい、という至極まっとうな意見は、正直に言って当時は全く耳に入らなかった。我ながら馬鹿な奴だった。

その頃一番苦しんだのは、精神療法(いわゆるカウンセリング)をどうやって勉強したらいいか、ということだった。外来などで涙を流して嘆いている患者さんに、専門家としてどうやって話しかけて何をしてあげればいいのか、学生の頃に身につけた知識と僅か数年の乏しい臨床経験だけでは、目の前で圧倒的な存在感を示す患者さんに対して、自信を持って治療的な面談をすることは事実上不可能で、当時は純情だった私は困りはててしまった。何らかの理論に基づいて一定期間まとまった勉強をし、指導医についてハンズオンのトレーニングを積み重ねることで技量を磨き、自信をつけ、一定の経験が蓄積された頃に初めて治療者として独り立ちする、というプロセスを経るのが一般的な研修方法なのだと思うが、私の場合は様々な理由でスタンダードなトレーニングを受けることが出来るような環境ではなかったため(それでも私には十分で、複数の素晴らしい指導医に育てていただいていた)、事実上、この分野に関しては、準備が不十分なままに患者さんと向き合い、成果を出すことを要求されていたことになる。他の大学や病院でも、同年齢の若い精神科医たちは、おそらく似たような状況におかれていたのだろうと思う。皆どうやって勉強したのだろう。機会があれば聞いてみたいものだ。

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3-2.精神科って楽しいかも [留学]

3-2.精神科って楽しいかも

私には当時、同期の医師がおらず、独力で何とか道を切り開くしかなかった。僅かな給料を割いて高価な専門書を手に入れ、何度も何度も読んだ。精神科のマニアックな専門書の場合、一冊手に入れるだけでも結構大変だった。当時はアマゾンなどという便利なものがなかったため、時間を作って専門店まで足を運んで買うか、大きな本屋さんに依頼して何週間もかけて取り寄せてもらうしかなかったのだ。しかも精神科の専門書は、部数が出ないので高価であることが多い。すぐに絶版になってしまい、再版されない名著も少なくない。だから独学で勉強するのも一苦労で、熱意とエネルギー、さらには行動力が必要だった。そんなふうにして苦労して手に入れた本を読みこんでみても、私にはこの特殊な分野に関する基礎知識と経験が絶対的に不足しているため、実際の治療の現場に勉強の成果を反映させるまでにはずいぶんと時間がかかった。もどかしかった。正直言って大変つらかった。

独力ではどうにもならないことを遅まきながら察した私は、自らの不明を恥じ、初心に帰ることに決め、先達に道を尋ねることにした。具体的には、当時同じ病院に勤務していた、自分が人柄に親和性を感じる(私よりはるかに優秀だが感受性がなんとはなしに似ている)先輩に相談した、ということだ。この先生は親切にも自分自身の指導者を私に紹介してくださり、結局私もその“先生の先生“にしばらく精神療法をご教示いただいた。涙が出るほどありがたかった。人の面倒を見るっていうのは、自分の分を分けてあげるということなのだなあ、と心から理解し、感謝した。柄にもなく謙虚になってしまった私は、それ以外にも、自腹を切って様々な勉強会に足を運んだり、本を読んだり、先輩に相談したり、勉強会を企画したりしたものだ。ありがたいことに、指導をお願いした先輩方は、みな一様に協力的であり、私の初歩的な質問に対してであっても、親切かつ丁寧に答えてくださったものだ。上記の先生以外にも、自分の通っている勉強会の席を譲って下さったり、なかなか手に入らない本をくださったりした方が何人もおられ、ありがたかった。精神療法以外の治療法、例えば薬物療法や電気刺激療法などは、やる気さえあればかなりのレベルまで独学が可能で、知識を蓄えておけば臨床の現場でそれを生かすことが可能だ。しかし精神療法だけはそうはいかない。地道に丁稚奉公のように知識と経験を積み上げないと、独り立ちにこぎつけることは出来ない。そんなこんなで、あっという間に数年が過ぎ去り、忙しいばかりの研修医生活も終わりを告げた。この後は精神保健指定医という一般の方から見るとかなり特殊な資格を取る必要があるのだが、先輩方に教えを乞い、方々に頭を下げてお力をお借りして、試験に合格すればほやほやの精神科医の出来上がりということになる。少なくとも私が研修生活を送った当時はそんな様子だった。一人前になった後は、やはり先輩方に教えを乞いながら、臨床経験を積んでトレーニングを継続するわけである。

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3-3.精神科って楽しいかも [留学]

3-3.精神科って楽しいかも

人間の心身を扱う医学の全領域の広がりを360度と考えると、精神科が担当する部分は180度になる、と大胆に言い切ってもよかろう。だから精神科の仕事というのは驚くほど幅広く、しかも各々の分野がかなりの奥行きを持っている。であるから、精神科領域の全ての分野でエキスパートのレベルまで自分を磨くことは事実上不可能であり、ある程度の領域をカバーすることが出来たら、そのあとは自分なりに深めていく領域を選択してその後の修行(と私は考えている)を続けることになる。医師になって10年ほどたったころであったろうか、生意気かもしれないが、私もこの時期を迎えた。優秀な精神科医は多くの場合統合失調症に関わることを選択するが、私の場合は少し違った。いろいろと迷った末に、当時としては少数派であった、身体科の研修をしたことを背景に、身体疾患と精神疾患のクロストーク分野、中でもうつ病(もしくはうつ状態)を学んでいこうと決めた。このような選択をする場合、アプローチの仕方は幾通りかあるのだと思うが、私はこんな風に考えた。内科(ジェネラル)と精神科の両方を、専門的なレベルで身に着けることは出来ないだろうか、と。つまり内科精神科、もしくは精神科内科医になるということだ。精神科と内科のどっちつかずになる可能性は高いが、当時はそれが自分の行く道であると頑なに思い決めていた。

私の場合、内科の“ある特殊な手技”に興味を持ち、精神科に進んでからも周囲の先生方のご厚意でトレーニングを継続させていただいていた為、内科と完全に切れたわけではなかった。当時、アメリカのシステムをお手本にして、精神科医が内科のかなりの部分を請け負うような医療を展開している病院が国内にあったことを知り、お願いしてその病院を見学に行った。そこで働いておられる先生方は非常に感じの良い、エネルギッシュな方ばかりであったが、病院の基本は見るからに精神病院であり、身体科的な介入がやや弱いように見受けられた。これは自分が求めているものと少し違うようだ。精神科医が救急外来で救急医として働いている現場を見学に伺ったりもしたのだが、これは完全に救急医療に従事している医師であってもはや精神科医ではなかった。私は精神科と内科の双方同じ重さを持って、患者さんと対峙することが出来るような医療を目指したかった。常になくあきらめ悪く、しつこく追求し続けた。次に試みたことは、精神科専門医を欲しがっている病院にお願いして、専門的な精神科医療を提供する代わりに内科の研修をさせていただく、という方法だった。これは当初はうまくいったように思われたのだが、そのうちに精神科の患者さんで忙殺されて内科の研修がほとんどできなくなり、やがて病院幹部から精神科医として就職することを求められたので、結局その現場を去らざるを得なかった。同じようなことを、何度か繰り返したのちに、他の方法を模索せざるを得なかった。

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3-4.精神科って楽しいかも [留学]

3-4.精神科って楽しいかも

柄にもなくわけのわからない難しいことを考えないで、素直に精神科医として、例えば精神病院で働けば、何も難しいことは無かったのだが、精神症状で苦しんでいる患者さんが精神疾患に罹患しているという理由だけで通常の身体的な治療を受けられない、という事実を何度も目の当たりにしたため、本来怠惰で自堕落な私ではあったのだが、志を曲げずに何とか道を見つけようと努力し続けた。書いていると恥ずかしい。嘘のようだが本当だ。ずいぶんたくさんの先輩方、もしくは優秀な同僚たちが力を貸したり、相談に乗ったりしてくれたものだ。私は心を固くして近視眼的になっていたが、周囲を見回すと、研究に没頭して大学や研究所にポジションを見つけようとする人、開業などの道を選んで自由で裕福な生活を手に入れようとする人などがいた。開業する人の中には、必ずしも経済的な利潤を求めず、損をしてでも自らの信ずる治療を展開していこうとする人などもいた。立派な人、優秀な人、上手に立ち回る人、、、。私の周囲の医師たちのほとんどは私よりも優秀であったため、参考にはなったが私自身のロールモデルは見つからなかった。それではどうしたらよいのだろう。気合と愚直な思い込みと体力だけでそれまで業界を渡ってきた私の脳裏に、この時期に初めて“留学”という文字が浮かんだ。本当のことを言えば、若かりし頃は何の疑いもなく将来海外で仕事をするものだと思い込んでおり、そんな人生を望んでいたのだが、ある試みに派手に失敗し、夢破れ、幸いにして医師となり、医師としての仕事にやりがいと誇りを感じるようになり、そのころまでには一医師として国内で一生過ごすつもりでいたのだ。しかし一通りの仕事をこなせる時期となり、進むべき道を見失ったときに、昔とは全く違った意味で再び“留学”を意識するようになった。意外な展開だった。だって私は精神科医で、英語なんてしゃべれない日本生まれの日本人なのだから、留学なんてできっこない。全然だめだ、というのが出発点だった。

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4-1. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか? [留学]

4-1. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか?

領域を超えた医療を形にするために、だれに相談するでもなく、一人でいろいろとやってみた。しかし医学という特殊な世界の中にあって、たとえそれがささやかなものであったとしても、何の力も持たない私が独力でレールを敷くことは簡単ではなかった。考えてみれば当たり前だ。それで、先達が敷いてくれたレールのようなものを探してはみたのだが、なかなかみつからない。それらしきものをみつけても、簡単には仲間にしてもらえなかった。精神科の世界は、ドアを叩いて案内を乞う人に寛容であるように思うのだが、それ以外の領域は、ずいぶんハードルが高いようだった。少なくとも当時の私はそう感じさせられた。結局、数年を費やし、じたばたと悪戦苦闘を繰り返し、残念だがあきらめるしかないのかな、という結論に達した。しかしあきらめてしまうのはよいが、この先どうやって生きていけばいいのだろう?

体だけは丈夫なので、どこにいって何をしたとしても、なんとか食べてはいけるさ、といった根拠のない自信はあった。少しずつでも前に進んで自分がやってみたい医療に近づいていこう、と怪しい情熱を燃やした。自分がいる場所、日本でやりたいことができないなら、それを実際にやっている国を探してみようじゃないか。“やりたいことをやらせてもらえるのなら、どこにでも行ってみよう”という結論を出すまでに時間はかからなかった。どこに行けば“内科精神科医”になることができるのだろう。実際に何をどうすればいいのだろう。皆目見当もつかない。しかしなす術なく袋小路で苦しむよりましだ。

昔のことを詳しく覚えているわけではないが、最初にやってみたことは、私の身の回りにおられる先輩方について調べてみることだった。実際にいろいろとお話を伺って驚いた。先輩方の中には、なんと伝説のフルブライト奨学金を取得してアメリカで研究をした先生をはじめとして、イギリス、フランス、スウェーデン等、先進諸国の有名研究所、有名大学で研究成果を挙げられた、綺羅星のような先生方がたくさんおられることが分かった。文化として“臨床第一、患者さん第一に考えなさい”という医局ではあったのだが、やはり優秀な先輩方は気軽に世界に羽ばたいておられる。素晴らしい。しかしほとんどの方は研究のための留学であり、臨床のトレーニングを受けた方はおられないようだった。しかしよくよく話を伺ってみると、スイスにわたって精神分析のトレーニングを受けた方、カナダで家族療法の勉強をされた方、フランスで集団療法の勉強をされた方など、現地で精神科臨床に実際に携わった方がいないわけではない。私は先輩方ほど優秀ではないが、同じ人間だ、オレだって何とかなるさ、と、希望を持つことができた。

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4-2. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか? [留学]

4-2. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか?

最初に調べてみたのは、確かドイツへの臨床留学の可能性だったように思う。私が研修した当時の日本の精神医学は、アメリカではなくドイツの精神医学を礎としていたため、ドイツの医学に対する憧れがあったのだと思う。世間は狭いもので(It’s a small world!)、少し調べてみると極めて身近にドイツで研究留学を経験された先輩がおられることが分かり、さらにさらに、数年前にお世話になった他科の指導医が、実はドイツで臨床研修を受けた経験をお持ちだということも知った。お話を伺わない手はない。お願いして時間をいただき、いろいろと教えていただいた。ドイツに国際電話をかけ、なんだか難しげな話を楽しそうにされている先生は、私の憧れそのものだった。その先生からの情報では、“日本の医師免許はドイツでそのまま通用するので、言葉の問題さえなければすぐにドイツの医者になれる可能性がある”とのことだった。本当か?(確認は現在に至るまでとっていない。興味のある方はご自分で)しかしドイツでは講義も臨床も英語ではなくドイツ語で行われるのは当然だ。私はといえば、大学ではドイツ語の先生と喧嘩して教室から追い出されてしまい(実話。立派な先生だったので悪いのは私)、しかたなくフランス語を選択しており、学生時代に身につけた僅かばかりの知識は当然忘却の彼方だ。いい歳をしてドイツ語をゼロから始めるのは現実的ではない。深く考える前にこの選択肢は捨て去った。

その次に考えたのは、GP(General Practitioner)の国、イギリスだった。やはりこの国に研究留学をした先輩が数人おられたので、お話を伺い、某有名教育機関にご紹介いただけるというありがたいお話をいただいた。それで早速、慣れないEメールを使ってコンタクトを取ってみたのだが(Windows 3.1の時代だった)、先方からのお返事は次のようなものだった。“受け入れは可能、まずは研究から、学費を払っていただきます”と。それで学費がいくらなのか伺ってみたところ、当時のお金で年間300万円相当ということであった。背に腹は代えられないので、とりあえずお金を払って、イギリスに渡ってから考えるのも一つの手かもしれない、という気にもなったのだが、結局この選択肢も使わないことにした。

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4-3. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか? [留学]

4-3. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか?

同じようなことを繰り返してだんだん慣れてきたので、英語圏で家庭医のようなアプローチで私の希望を実現できるような場所を探してみた。浮かび上がってきたのがオーストラリアだった。この国に留学した経験を持つ先輩は不幸にしておられなかったので、全て自分で調べ上げて話を進めていくしかない。私は家族を連れて何度かこの国を訪れており、ちょっと訛りのきつい英語にも何とか対応できるような気がしていたので、気軽に関係機関に連絡を取った。私のようなどこの馬の骨とも知れない個人に対して、極めて誠実な反応が返ってきた。緊張はしたが、たいへん嬉しかった。相手方からの反応は極めて迅速かつ友好的であり、内容的にはこんな感じだった。“オーストラリアで医療に携わることを希望するなら、日本の医師であるあなたにも可能性はある”“まず定められた英語の試験を受けてほしい”“チャンスは一度だけ”“合格したら次は医学の試験”“基礎と臨床の試験があり、各々チャンスは一度だけ”“全ての試験に合格すれば、あなたは晴れて我が国の医師として認められる”。これにはかなりの魅力を感じた。オーストラリアの医療は、おそらく世界で最先端ということは無いだろうが(オーストラリアの先生方すみません)、少なくとも家庭医のような形で私の希望を(あえて夢とは呼ばない)実現することはできそうだ。オーストラリアに臨床研修をしに行く、というレールを、独力で切り開いていくかどうか真剣に考えていたとき、私は同時にアメリカへの臨床留学の可能性を調べ始めていた。

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5-1. 精神科医としての成長について [留学]

5-1. 精神科医としての成長について

書き忘れたことがったので、まとまらないかもしれないが重複をおそれずに忘れないうちに書いておこうと思う。

若かりし頃の私は、ずいぶんたくさんの患者さんをお世話していた。仕事以外のことにはあまり興味もなく(宴会は除く)仕事漬けの毎日を“堪能”していた。思えば家族にはずいぶんと迷惑をかけてきた。今から思えばもう少しゆとりを作って勉強した方がよりレベルの高い臨床活動が出来たようにも思うのだが、当時は自分が置かれた状況を客観的にとらえることが出来ていなかった。与えられた仕事を精一杯こなす、というか、外来や病棟にくる患者さんをとにかく頑張ってお世話して、おかれた状況でベストを尽くす、それでいいと思い決めていた。今思えば“甘ちゃん”だった。

国公立の多忙な病院で研修を積んで育った私のような医師は、よく大学などで研修してアカデミックな背景を持つ医師たちから“手ばかり動く医者になってしまって、、、”と揶揄されたものだが、私のような立場の医師は、彼らを“頭でっかちで口ばかり”とやり返していた。しかし現場でできるだけたくさんの患者さんをお世話して、、、というやり方を続けていると、やがて限界が来る、というか、主観的な“プラトー”に達してしまうことが多いようだ。私の場合もそうだった。具体的には、心身ともに疲弊して、、、というわけではなく、たいていの患者さんをそれなりのレベルでケアすることは出来るのだが、やることなすことがルーチン化してしまって、医療の質が向上する速度が遅くなる、といったようなことであろうかと思う。

私が当時短期間ではあるがお世話になった先輩は、“精神科医の進歩は二峰性”と言っておられた。その意味は、仕事を始めた数年間は、それこそ何も知らないので、毎日が進歩の連続であるのは言うまでもないが(誠実に働くのが前提)、一定の年月を経ると、進歩の速度が当然遅くなる。この段階で努力をやめてしまって、一生そのままだらだらと仕事を続ける精神科医が非常に多いのだが、実はこの先に、少なくとももう一段階、医師として成長するチャンスがある、というようなお話だった。このことはいつも私の心の片隅に引っかかっており、10年ほど修行を続けた私は、お恥ずかしい話だが、一つ目の峰を超えてしまったような気がしていた。つまり、同じようなことを続けていても、大きな進歩は望めないのではないか、と思いあがっていたのだ。“たいていの患者さんはなんとかすることが出来る”という自信があり、実際評判は悪くなかったように思うのだが、私が毎日携わっている患者さんの治療が何故うまくいくのか、ということをきちんと体系立てて論理的に説明して後進に伝えることは出来なかった。職人としては悪くないが、医師としてはこのままでは不十分なのではないか、何かが足りないのではないか、と感じるようになって苦しみ始めた。

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5-2. 精神科医としての成長について [留学]

5-2. 精神科医としての成長について

それで自分はなにをしたか、ということなのだが、おぼろげな記憶によれば、最初にしたことは精神療法(いわゆるカウンセリング)の勉強だった。今ほど情報があふれていない当時、勉強するといえばやはりまず本を読むことだった。あるお気に入りの(尊敬すると書くと怒られそうなので)先輩筋にあたる方から、“雑誌の特集などではなく、成書を読みなさい”と指導されていたため、背景の知識もないままにそれらしい本を片っ端から読んだ。医学書というのはふざけた値段がついているため、若かった私には大きな負担であったが気にせずに買い漁った(本当はすごく苦しかった)。いわゆる名著といわれるような本を片っ端から手に入れて読んでみた。立派なことが書いてあるだけで具体的に治療のイメージが全くわかない本もあった。小さくまとまっており、一行一行が宝石のように輝いてみえる本もあった。しかし本に記されていることの本当の意味が分かるのはある程度精神療法ができるようになった人たちなのであり、初学者にはなかなかハードルが高い、というのが当時の偽らざる感想だ。勉強したいので本を読む→本に大変有益な情報が記してある→本当の意味を理解するのにはある程度の知識と経験が必要→せっかく本を読んでもどうもいまひとつわからない→外来での治療に自信が持てない→勉強したいので本を読む、、、、。という残念なサイクルがぐるぐる回って時間だけが経っていった。焦った私は周りにいた優秀そうな先輩方に相談した。

いろいろな方々がおられたが、ほとんどすべての方が何らかの指導をしてくださった。ありがたいことだ。例えばある先輩は数冊の本を下さって、勉強会に出席する便宜を図ってくださった。当時は、おそらく今もそうなのだろうと思うが、精神療法の勉強会は個人情報をある程度扱わざるを得ないため、参加は守秘義務を持つ職種の方に限られている。それは当然だと思うのだが、勉強会によっては参加者からの紹介がないといくらお金を払っても参加させていただくことはできないこともある。そういう特別な勉強会を紹介していただき、参加させていただいた。ご自分の勉強する権利を譲ってくださるようなこともあり、困り果てていた私には非常にありがたかった。そうやって先輩に甘え、ずいぶん勉強させていただいた。しかし勉強会に参加するだけではやはりこの手の勉強には限界があり、自分で症例を出して、恥をかきながら直接指導していただく必要がある。わかる人にはわかるだろう。しかし参加者が数十人いる勉強会で症例を出させていただいたとしても、せいぜい年に数回程度の指導しか受けることができないので、やはり個人的な指導者を探すしかないわけだ。しかしそうはいっても毎日ボロボロになるまで働いている自分にはなかなかそういったコネもなかったし、なにより時間が捻出できない。どうしたものか。やはりこの時も、私に手を伸ばして力を貸してくださった方がおり、素晴らしい指導者をご紹介いただいた。時間的にも柔軟に対応し、包み込むようなやさしさでご指導いただいた。それでしばらくの間、その先生について勉強し、現在につながる精神療法のスタイルの原型を作ることができた。精神療法というのは医療ではあるが、科学というよりは芸術のような側面が色濃く残っている技法であるため、不断の努力で技術を磨き続ける必要があるのだが、そういった芸術的な側面の基礎、つまり絵で言えば筆の使い方とか色の作り方のようなものを教えていただくことができたように思う。まあ教育を受け取る私側の限界があるため、必ずしも先生の意図したように私が成長したかどうか疑問がないわけではないが、その先生の教育にどれだけ私が救われ、感謝したか、筆舌に尽くしがたい。ほんとうにありがたかった。芸というのはどんなものでも大体10年くらい修業しないと一人前に離れないものだが、粗忽な私でも10数年くらい身を入れて修業すれば、それなりの治療者に慣れるのではないか、などと自惚れ、将来の夢を見たた。それで、当時の私は、例えば開業して、精神療法を主体とした精神科医療に身を投じよう、などと考えることもあったのだが、一方で、大きな病院でしかできない検査や治療に対する未練のようなものも当然感じていた。私は迷って立ち止まってしまった。

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素晴らしい同僚たち 1. シカゴのJ [留学]

素晴らしい同僚たち 1. シカゴのJ

Jは一級上の落ち着いた黒髪の女医さんだった。私の様に英語が下手な外人、しかもでっかい黒髪ツンツンの東洋人に面白がって近づいてくる人は、あまりいない。最初に近寄って来るのは例外なく中年の女性。彼らは怖いものがなく?ものすごく好奇心が強いのだ。次が中年男性、彼らはフレンドリーな人が多い。異国で浮いている私を放っておけないのだろう。部下を指導する上司のような目線なのかもしれない。そして次に近づいてくるのは、なぜか若い女性だ。怖いもの見たさ、といったところだろう。一番冷たいのは若い男性、とくに白人男性ということになる。彼らの中には、あからさまな敵意さえ感じさせる人がいたように記憶している。同僚のレジデントや医師たちの中には、ほとんどお年寄りはおられなかったので、お年寄りは省略する。

Jは、私のことを面白がってけっこう早い時期に親しんでくれた。この人(と言っても実際は年下の女性なのだが)は細身、わりと長身、珍しいさらさらの黒髪で、瞳は濃いグレー、お肌は真っ白シロ、それで沢山そばかすがあった。目鼻立ちは当たり前だがはっきりとしていて、シカゴ出身と聞いていたが、イギリス人の様にゆっくりと話す。ユダヤ系の人なのかもしれないが、結婚して名前が変わっているので最後まで確認できなかった。Politically correctであることを無言のうちに要求されるため、性的なこととか、人種的なこととか、私のような雑な英語しか操ることのできない者は近づかないほうが無難だからだ。Jはきれいな若年女性なのだが浮ついた感じは皆無で、全体にしっとりと落ち着いており、クールな印象を与える。服などにはこだわらず、ブランド物などを身にまとうことはしない。しかしやはり手足が長いので洗練されてかっこよく見える。やはり洋服は、西洋人のものなのだ、と感じさせられた。家庭的な雰囲気は皆無で、生活臭を感じさせるようなことも無い人だった。(多くのレジデントはすでに結婚していたり、子供がいたり、はげていたり、おなかが出ていたりする)

最近は日本の医学部でも真似をしているようだが、米国には一部のリサーチマインドを持つ医学生のために“M.D.-Ph.D. コース”というプログラムが用意されており、確か2年間ほど長く就学して二つの学位を取得する、といった、いわゆるOverachieversのための受け皿が用意されている。Jはこのプログラムの数少ない卒業生で、お金を受け取りながら医学部を卒業していたとのことであった。米国では大学院生は立派な“職業”だそうで、このコースに潜り込むことができれば、医学部に通いながらお金を受け取れるそうな。しかしこれは結構きついプログラムらしく、途中で音を上げてしまうと、入学当初から受け取ったお金を返金し、さらに学費を最初から払いなおさなければいけないらしい。これは借金で火だるまになることを意味するので(米国医学生の借金のことについては稿を改めて記載したい)、このプログラムは乗ってしまったら降りられない、ジェットコースターのようなものなのだ。しかし無事に卒業すれば得るものは多く、例えば私の知る限り米国でPh.D.をもっていると、とりあえずバカではないらしいと認識されて周囲の人たちが自動的に一目置いてくれる。卒後の医師としての収入も多少は違うのかもしれない。ともあれ、Jは、高い倍率をかいくぐってこのプログラムに入り、おそらくクールに淡々と与えられたタスクをこなし、何本かの論文を書いて優秀な成績で卒業したという。だからとりあえず皆に尊敬されるわけだ。美人だしね。

ともあれ、最初に親しくなったうちの一人がJだ。こんなハプニングを経験した。

レジデントには、病棟の近くにレジデントルームが与えられており、その部屋にこもって(もしくは避難して)診療録をPCで書いたり、調べ物をしたり、着替えたり、泣いたり笑ったり、時には恋をしたりする。レジデントに与えられた小さなプライバシーであり、それなしにどうやってレジデンシーを乗り切ってゆくのか、私にはわからない。とにかくレジデントにとって快適でかけがえのない空間なわけだが、ある朝(レジデントの朝は早いのだ)、私がレジデントルームに入ろうとノックをして、ぶ厚い木のドアを開けると、なんとJがおり、着替えをしていた。男女の区別なく、同じ部屋を使っているわけなので、こんなことが起こるのも仕方がない。私は何も悪いことをしていない。ノックをしたときにJが何も言わなかったことも悪かったのかも。そうではあったが、ちょっとだけ見てしまったのだ。彼女の豊かなものを。私の頭はすぐにショートしてしまった。“どうしたらよいのだろう?“”セクハラ“とかいって訴えられて国外追放なのか?走馬灯のようにそれまでの人生が頭の中を駆け巡ったりして、、、。もちろんうっとりと眺めたりすることなく、”やるねー”などとニヤついたりすることもできず、反射的に“ごめんなさい!”といってすぐにドアを閉めた。レジデンシーを始めたばかりの私は、こういったハプニングを楽しむだけの余裕なんてなかった。それでしばらく外で様子を伺って、呼吸を整えてからゆっくりとノックをして部屋に入った。着替えを終えたJに“どうやって謝ったら許してくれる?”とおずおずとひきつった笑いをほほに張り付けて尋ねてみた。精一杯冷静を保って。でっかいひげ面の東洋のオジサンがもじもじしている姿は、かなり情けない印象を与えたと思う。すると満面に笑みを浮かべたJは、“全然問題ないよ”“見る?”と、再びなにか美しいものを私にむけて開放した。痺れた。

Jは彼女なりの方法で私に気をつかってくれたのだと思う。その後も“先輩”として何くれなく相談に乗ってくれ、日本で私が受けた教育なども興味を持っていろいろと質問し、私の書いた論文も読んでくれてメールでコメントをくれたりもした。彼女の存在が、厳しかった私のレジデンシーにどれほど明るい光を投げかけてくれたか、はかり知れない。今でも大変感謝している。現地の好意的な人たちの温かい目線なしには、外国人が仕事をすることなど不可能だ。

彼女は決してラテン的な性格の人ではなく、勤勉で物静かなむしろゲルマン的な女医さんで、レジデンシーを淡々と危なげなく終了し、卒後すぐに母校の助教になった。その頃に一度だけ会う機会があったが、相変わらずクールで格好いいおねいちゃんだった。子供を作らないのがナゾであったが、理由を質問することははばかられた。それでも結構幸せそうにしていて、なんだか安心してしまったことを覚えている。

渡米してたくさんの素晴らしい人たちに会う機会を得たが、面白そうな同僚の話をしろ、というのであれば、やはりJの名前が最初に思い浮かぶ。とってもインパクトのあるヒトだった。大変お世話になりました。ありがとう、J。

同僚たちのことを思い出して書くのは楽しいということが分かったので、とりあえず思いつくままにどんどん書こうとおもう。
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素晴らしい同僚たち 2. ミネソタのM :軍人として生きるということ [留学]

素晴らしい同僚たち 2. ミネソタのM :軍人として生きるということ

Mはかつて軍人だったという。軍関係の仕事をしていた人たちに対する一般的なアメリカ人の反応は独特であり、私のような部外者から見ると、尊敬しつつなんとなく偏見を持つ、といった趣を感じさせた。(失礼があったらすみません)在郷軍人(Vet.と呼んでいたし呼ばれていた)たちの結束は固く、Vet.同志、もしくはその家族同士が、なんというか、大きな家族のようなつながりを持って、お互いに助け合うといった独特の文化が醸成されているように思われた。病院で初めて出会った人を、Vet.同志というだけで自分のクルマで家まで送ってあげたり、食事に招待したり、いくら田舎の小都市と言ってもあまり一般的なアメリカ社会で行われていないような付き合い方を目にすることが頻繁にあった。そのように記憶している。蛇足だが、私がレジデントになった頃は、在郷軍人病院があるようなところは、とんでもない田舎なのだ、と教えられていた。

私自身も在郷軍人病院で数年間働いた経験があるわけだが、アメリカでは基本的によそ者(外人)であり、実際には軍関係者ではないため、当初はその文化の中に入り込むことは難しいのではないかと思われた。しかし実際は、病院の中の売店や食堂で、いろいろな人たちが背は高いが毛が真っ黒で頭がツンツンしている異形の私に気にせずどんどん話しかけてくる。道を聞いてくる人さえいた。なぜ私に?短い雑談(small talkという)は、完全な口語であるため、私には結構難度が高かった。ともあれ、確かに私も外側から見れば在郷軍人病院の職員に見えるわけではあるが、なんというか独特の親密さを感じさせられて、なんとなく雰囲気に飲み込まれてやがて一体化してしまった。客観的にはどう贔屓目に見ても異端者である私が、大きな集団に無理なく自然に帰属することが出来て、正直に言えば、普段は孤立しがちであったためか、居心地がとてもよかった。

入院していたお年寄りの在郷軍人と太平洋戦争(と記載してよいのだろうか)について話をしたときにはさすがに緊張した。その際は、相手が私に割り当てられた患者さんであったため、自分が日本人であることを正直に伝えたうえで、治療にあたらせていただいた。幸いにしてコミュニケーション上の大きな問題はなかった。しかし心情的にはどうだったのか、患者さんでない私には本当のところはわからない。病棟で仲良くなり、冗談などを交わすようになった精神科の患者さんたちが、B29 のプラモデルをこれ見よがしに私に見せてげらげらと笑ったりしたことがあった。私は怒り出すわけにもいかず、自然に笑うことも出来ず、どんな反応を返せばいいのか困惑してしまい、ヒジョーに厳しい、居心地の悪い時間を味あわされた。外国で仕事をするというのはなかなか厳しいことだ、と思うのはこういう時だ。

Mは軍隊で、大陸弾道弾の発射に関する、とある重要なミッションについていたそうだ。国家の機密にかかわることなので、何をどうやっても軍の仕事に関することは全く口を割らない。であるから、軍隊関係の仕事についてはあまりたずねないことにしていた。尋ねるとなんだか物悲しい顔をして微笑むようになってしまったからだ。Mは小柄で筋肉質、服装に気を使うおしゃれな男で、後に私と同年齢であることを知った。ということは、7-8年は軍隊で働いていたということになる。立派な軍人さんだ。恐らく何らかの業務で高く評価され、頭脳明晰であることが明らかとなって、結果として軍の後押しで医学部に進学する機会を得たのだろう。彼は一切自慢はしなかったけれど。努力を重ねて学業を立派に修めて医学部を卒業し、偶然私と同じ大学病院や関連病院の一つである在郷軍人病院に勤めることになったというわけだ。Mは乗り物が好きで、“でかいエンジンのクルマが好きだ”といってなぜか真っ黒でピカピカの、大きなエンジンを積んだNissanを愛していた。アメ車は全然だめだと言っていた。それ以外にも大きなバイクとか、古いオープンカーとか、家を訪ねたことこそ無いが、エンジン付きの乗り物を沢山所有していたらしい。

彼は結婚はしていないもののものすごく年下の婚約者と同居しており、その子はなんというか、おとぎの国のお姫様のような、現実離れしたやや幼い姿かたち、服装をしていた。軍隊で働いた背景を持つ、マッチョでクルマ好き、ロリータ趣味?(失礼があったらすみません、しかし他に適切な言葉が出て来ないのです)という、まるでアメリカという国を体現したような、力持ちではあるが、大きな赤ん坊のような男だった。彼は明るく、いつも笑っており、人を引き付ける魅力に富んでいた。気を使って周囲の人たちに常に話しかけ、レジデントたちの厳しい研修の場を盛り上げようとしていた。もちろん私も彼のことが大好きだった。軍隊における彼の立場は自分にはよく分からなかったが、兵隊であると同時に医師であることで、かなり高いポジションに据えられていたようだ。時に軍隊に同行して、遠くまで飛行機で飛んで行って、兵隊の世話をしたり、講義をしたりしていたようだ。いわゆるActiveDutyに携わることはないが、軍隊の活動には常に関わっていたようだった。

レジデンシーも学年が進むと、入院だけではなく外来も受け持つようになるのだが、希望すれば在郷軍人病院で働くこともできた。経済的に苦しいレジデントの中には、週末に家族との時間をあきらめて、外部の病院で働き、お金を稼ぐような奴もいた。結構高額な給料をもらっていて実はものすごくうらやましかった。私はいくつかの理由で在郷軍人病院での外来研修を選んだのだが、Mも当然のようにそれを選んだ。“軍人の事は軍人が一番よく分かる”と言って。

私はたまたま興味があって、PTSDに苦しんでいる兵隊さんたちを自ら沢山Careしたのだが、彼も同様で、時には休日を返上して手当も出ないのに外来をやったりしていた。たまに手伝いをかって出ると、彼は非常に感謝してくれた。”Vet.に代わってお礼を言うよ”なんて言っていた。また、アメリカの軍隊の文化では、誰も口には出さないものの、“精神病は心の弱さのために起こる”という考え方、感じ方が根強く残っており、(陸軍、海軍、空軍、沿岸警備と、それぞれに文化が違って、行動様式や考え方の方向性はずいぶん違うようだったが)精神的に不安定になってしまった兵隊さんたちをCareするときには非常に気を使った。医者は上官として扱われるので彼らは基本的には我々に絶対服従だが、兵士としての誇りを傷つけないように、デリケートに扱う必要がある、ということだ。Mは誰よりもこのことに敏感だった。

PTSDの患者さんの講義を受けるときなどは、突然興奮して真面目な顔をして立ち上がり、“兵隊たちはストレスでおかしくなったんじゃない、脳が壊れただけなんだ”“心が弱いんじゃない、脳の問題なんだ。ここにいる皆にはそう理解してほしい”などと一くさり語ったものだ。恐らくそんなMを煙たがっていた人たちもいたのだろうとは思うが、個人的には立派なかっこいいアメリカの男だな、と尊敬していた。

Mは“レジデンシーが終わったら、牧場を買って(日本人の私には理解できない、そんなもの買ってどうするんだろう?)車をいじりながら、兵隊の面倒を見て、家族と一緒にのんびり過ごしたい”、とよく話していた。最近はどうしているか、卒後連絡は取っていないが、私にとって最もアメリカを感じさせる同僚がMだった。彼は今頃Big Daddyになっているのだろうか?


その後、彼は小児精神科医になる道を選んだらしい。

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素晴らしい同僚たち 3. ニューメキシコのS:洋の東西を問わず若者はお金に苦労する [留学]

素晴らしい同僚たち 3. ニューメキシコのS :洋の東西を問わず若者はお金に苦労する

Sは子連れの女医さんだ。お父さんは不法入国?のメキシコ人、お母さんは白人の弁護士さん、といったちょっと複雑な家族背景を持っている。詳細は失礼なので聞いたことがないが、メキシコ国境にほど近い米国南部に住んで、恵まれない人たちに法的な援助の手を差し伸べていたお母さんが、メキシコ人と恋に落ちて結実したのがSで、なんともロマンチックな話なのだが、Sご本人は失礼だがあまりロマンチックな人には見えず(失礼)、色は白いが大柄でふくよかなメキシコのオバサン、と言ったところ。田舎のオバサン的なおだやかな雰囲気を漂わせており、会って話すと安心した。

この人もお母さん同様にボランティア精神にあふれており、二人の子供を産んだ時にずいぶんつらい思いをしたらしく、何がどうしてそうなるのかは語ってくれなかったが、“精神疾患をもった人たちの出産を助けたい”と考えるようになり、私と同じ大学病院にある家庭医学と精神科の複合プログラムで研修を始めることになった。このプログラムはFP-Psych(エフピー・サイク)と称され、心身両面の研修を積まなくてはならないため結構忙しく、その期間も5年間と一般のプログラムと比べると長い。彼女は上述したようにすでに子供が二人おり、夫は定職についていなかったため様々に多忙であった。よく言われていることであるが、レジデンシーは最初の数年が大変で(多くの人たちが嫌がるような、様々な意味で厳しい研修が初年度や次年度に多い)、上に上がるほど楽になるのだが、Sは家庭と仕事の両立が困難となり、FPかPsychのどちらかを選択することを迫られて、結局FPを捨ててPsychのレジデントになることを選んだ。めでたく?私の同僚の一人となったわけだ。内部に入り込んでから知ったことだが、専門性が低いためか、FP(家庭医学)のレジデントのポジションはあまり人気がなく、私が所属した大学病院の中では、当時もぐりこむのが一番簡単なレジデンシーの一つだった。だから医学部時代に学業成績が今一つだったなど、何らかの問題を持っているような人は、まずFPにもぐりこんで、一年間頑張って個人的な評価を上げ、その後に希望のプログラムに変更する、というようなことをする。多くの米国の研修医や医学部生たちは必死なのだ。だからSのようにレジデンシーの途中でコースを変更することは珍しくない。このあたりの事情は、別に章を設けて書こうと考えている。

レジデントたちにはアメリカ人たちの一般的な水準を鑑みると結構な収入があり、日本のように“修行中の身の上”ではなく、りっぱな“職業”とみなされていた。ご存知のように米国は経済的な二極分化が極端に進んでおり、例えば高卒で特別の資格を持たない一般的な米国人の生活はお世辞にも“豊か”とは言えないものであった。その状態から抜け出すことは、よほどの幸運に恵まれるか、人並み外れた努力をするか、特別のことがなければ難しいようだ。愛すべき我が極東の小国とは、別の意味で深い闇を抱えた国家なのだ。そんなわけで、贅沢さえしなければレジデントが家族を養うことは十分に可能で、実際に家族を養っているレジデントはかなり多く、Sもそのうちの一人であった。夫と子供二人を借金しながら養っていたわけで、なかなか立派だ、と密かに尊敬していた。英語でbread-winnerという表現がある。日本語でいうとおそらく一家の大黒柱という言葉がこれにあたると思うのだが、Sはそういう役割を自ら選び、淡々と生きていた。鼻息はちょっと荒かったが。

私の理解している限りにおいて、米国のレジデントたちの経済的なバックグラウンドはあまり恵まれているとは言えなかった。前提として、医学部というのはgraduate-school、つまり大学院にあたるため、まず普通の学部を卒業しなければならないわけだ。この段階までは奨学金を受け取ったり、親から経済的な援助を受けたりして卒業する人たちがけっこういるようだが、学部を卒業するためにすでに銀行からお金を借りている人たちもいた。この間に何らかの形で高い評価を受け、推薦状を沢山もらって医学部に進学するわけだが、このあたりから医学生たちの借金人生が始まると聞いている。医学部の学生にお金を貸せば、利息を含めてお金が返ってくる可能性が極めて高いため、銀行は先を争ってお金を貸したがる。高い学費、生活費、その他の雑費など、銀行は医学生が卒業するまでに1-2千万円のお金を貸してくれるのだという。当初の設定でお金が足りなくなると、医学生たちは銀行の担当者と話し合って、例えば壊れた車を中古車に買い替えたりする。そのたびに難しい顔をして銀行と電話をしている学生やレジデントの様子を観察したことが何度かある。うまくいくと、“これでWifeの車を新しくできる!”などと、晴れ晴れとした笑顔で話してくれたりしたものだ。

レジデントになると、それなりの給料を受け取るようになるのだが、卒業までは、借金の返済を待ってもらえるようだった。もちろん利息は付くわけだが。失礼にあたるので、個人的に詳しく事情を聞いてみたことはないけれど、返済の利息は、元金をはるかに超えるそうで、銀行はいい商売をしていると思った。一旦卒業してしまえば米国医師たちの社会的地位は日本と比べてはるかに高く、給与水準も高いので、まじめにやってさえいれば返済に困るようなことはない。上手くできている。しかしなんらかの問題を起こしたり病気になったりしてしまうとこのスキームから脱落してしまうことになるわけで、残るのは借金ばかりだ。身のまわりで悲惨なことになった話を聞いたことは幸いにしてない。こんな事情があるから、医学生やレジデントたちは命がけで勉強や研修に取り組むわけだ。日本とは事情が違う。真剣さが違う。本来の意味で生存競争にさらされているといってもいいのかもしれない。このような背景を知ることなしに米国の医学教育のありかたを理解しようと試みることは間違っているといえるだろう。そんな人生における厳しい時期に苦楽を共にした同僚たちは、お互いにとって忘れられない存在になることはある意味当然だ。私自身はそのような生存競争から一歩引いた立場に身を置いていたため、時に罪悪感を感じるようなこともあったけれど。

話を戻す。そのような背景を持ったSは、夫や子供の面倒を見ながらレジデンシーに奮闘していたわけだが、子供の世話はやはり大変そうだった。信頼できる評判の良い保育所に子供を預けると、月に確か5-6万円請求されるのだが、お金の実質的な価値は実質的に日本の倍程あるため(田舎なので贅沢さえしなければ物価が安い)、これはかなりの負担だ。Sはお金に余裕がなかったので、基本的に彼女の夫が子供の面倒をみて、夫が何らかの仕事(コーヒー屋さんなんかでバイトをしていた)をしているときにはSは子供たちを職場に連れてきた。私は子守はあまり得意ではなかったのだが、彼女の娘は宮崎駿が好きで、三鷹にあるジブリの美術館に行ったことがある、なんていうので、なんとかかんとか話を繋いで短時間なら面倒を見ることができた。本場の日本でナウシカの漫画を買ってきてそれをプレゼントしたときにはずいぶんと喜んでくれた。仕事用のPCを叩きまくってゲームをするのには参ったけれど。

Sは身なりに構わず、髪はザンバラ、メガネは丈夫だけが取り柄の男がかけるようなごつい黒メガネでコンタクトの使用などは考えたこともないらしい。しかも安物の分厚いレンズがついており、お世辞にもファッショナブルではない。洋服は地元の安いスーパーで仕入れ、ブランドものを持っていたり、着ていたりする様子を見たことがない(ほとんどの同僚たちがそうであったが)。それでかなり太っているので、同僚たちにはあまり人気がなかった。人柄のいい人なのに残念なことだ。レジデントたちは皆、“経済的だから”といった理由で家を買うのだが、彼女もその例外ではなかった。卒業したときに値段が上がることを期待してレジデントを始めるときに家を買うわけた。彼女自身の言葉によれば、“古くて汚くってじめじめしている。地下室(basement)にはとても入れない”とのことであった。“人を招待するなんでとってもムリ”ということで、一度も家に招待してくれなかったことは残念だった。その後その家は、Sが卒業するときに、かつてそこに住んでいた人の親せきが、懐かしがって買ってくれたというが、その話を聞いたときは、他人事ながらほっとしたものだ。

助け合いながら(実際はもちろん助けられることが多い)結構仲良くやっていたのだが、突然別れ?はやってきた。Sは、お母さんから受け継いだ血が突然騒ぎ出したらしく、“法律をやる”と言い出したのだ。それには訳があり、Forensic Psychiatry(司法精神医学)の専門家、弁護士と精神科医のあいのこのような、BMWのSUVに乗った、颯爽としたものすごく美人のG先生が大学にやってきたからだ。この分野の専門家はそれまで大学にはおらず、着任早々に流暢なプレゼンを繰り返して我々を魅了した。ファンがたくさんできた。しかし分野が特殊であるため、G先生に師事しようというレジデントはなかなか現れなかった。実際、私にはどんなことをする学問なのか、想像もできなかった。私が治療していた患者さんが法的な問題に巻き込まれたときに、法律的な相談に乗っていただき、助けてもらったことがあるくらいだ。"Don't worry, my dear"なんて言ってハグされたときは、ドキドキして死ぬかと思った。ともかく、G先生は研修するレジデントを大募集していたのだが、最初に手を挙げたのが、なんと我が親愛なるSだったのだ。“あたし、やる”などと言いながら、あまい整わない身なりでG先生のオフィスに行って鼻息を荒くして弟子入りを申し込んだものだ。幸いG先生の受け入れは良好で、Sは目出度くForensic Psychiatristとしての一歩を踏み出すことができた。どんなことを学んだのか、私は研究に軸足を置いたレジデントであったため、よくわからない。そんなわけで、残念ながらその後、Sとの付き合いは薄くなってしまって、たまにあった時に話をするくらいになってしまった。

Sはレジデンシーを終了した後、司法精神医学の道を突き進み、最近は特に医療訴訟関係の問題をかかえて苦しんでいる人々のために奉仕する毎日を送っているようだ。“近くによったら遊びに来てね。マジで言っているのよ、わかる?”と最後に会った時に言ってくれたことが印象に残っている。今思えば、Sにはずいぶんお世話になった。元気でやっているだろうか?たぶん今でも鼻息荒く毎日頑張っているのだろう。 ありがとう、元気でね、S。
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素晴らしい同僚たち 4.中西部の医学生S [留学]

素晴らしい同僚たち 4.中西部の医学生S

彼女のことはよく覚えている。研修中に、最も精神症状の激しい患者さんをケアする病棟で悪戦苦闘する私に話しかけていたくれたことが彼女との出会いだった。“K、あなたは上手くやっているわね。いろんな外人をみたけれど、あなたはずいぶんうまくやっているわよ”と言ってくれたっけ。

私には、Sは中西部の典型的な保守的でまじめた医学生に見えた。私の個人的な理解では、アメリカ中西部というのは文字通り大陸のど真ん中にあり、夏暑く冬寒い土地柄であり、白人が多く、文化的にも宗教的にも保守的であり、地味に努力を積み重ねることが良しとされている、おそらくこれが本来のアメリカ文化なのだろう、という雰囲気を今に残している地域である。個人的な経験に基づく、ものすごい偏見で言い切ってしまえば、中西部の典型的な女性はやや大柄でふくよか、といったことになろうかと思う。Sもそんな女性の一人であった。Sはブルーネット(というのだろうか)の豊かな髪を長く伸ばし、愁いの深い瞳をした、全体につつましい雰囲気を漂わせた医学生だった。肌は真っ白で瞳は薄いブラウン、鼻も口も、控えめな大きさで、知的な印象を与える。小さ目な白衣を窮屈そうに身に着けていた。大学の隣町の出身で、ホームタウンでは彼女は当然かなりの秀才で、家柄も良い子であった。子、と書くと抵抗があるくらい、体の大きい、やや骨太で背が高い女性だった。大柄であることをやや恥じているようで、背を丸め、かかとの低い、ペタンコの、それこそ昔の日本の女学生が履きそうな、赤い革靴を履いていた。アメリカの女性の医学生によく見受けられるような、明るい微笑みを浮かべながら大声で主張しまくるような、アグレッシブな印象はほとんど与えない人だった。

彼女は明らかにアジア系の顔をした、その割に大柄な私に興味を持ったようで、結構器用にPCを扱う私を眺めて不思議そうにしていた。私のタイピングがものすごく速かったからだろう(私はPCマニアだったので、ブラインドタッチも昔ずいぶん練習した)。彼女は、このあたりにはあまりアジア人はいない事、いても中華料理屋さんとか寿司屋さんとか、その国独特の文化を生かした仕事をしている人が大半であること、医学の世界、特に臨床をしている人はほとんどいない事(アメリカで生まれたアジア系のアメリカ人は除く;実際、私がいた州で精神科医の免許を持っていた日本人は私一人)などと私に告げ、ニコニコと微笑みかけた。私はアメリカでは、おかしな英語を操る巨大なアジア人として、微妙な差別とかいじめにあうことが日常的であったのだが(パーソナリティ障害の人に母国に帰れと言われたのはこたえた)、分かりやすい形で好意を投げかけられることはほとんどなかったので、結構うれしかった。日本では尊敬されるとまではいかなくとも、まあまあ頑張っている人として粗末にされるようなことはあまりなかったので、アメリカに渡った当初はずいぶん傷つくことも多かったのだ。

それで、Sと話をした機会に、アジアに興味があるのか、と尋ねてみた。Sはみつのような微笑みをたたえてうなずき、彼女のPersonal Storyを語りだした。興味深い話で、すぐにひきこまれてしまった。びっくりした。彼女は子供のころから何故かアジアの文化に興味を持ち、勤勉で優秀な女子大生であったころに、何度もアジアの諸国を訪れたのだという。話はそれるが、アメリカドルが強いためか、諸外国に旅行するのは日本人が海を越えるのと比べてずいぶんハードルが低い。だから、東京の人が北海道に遊びに行くくらいの感じなのだと思って読んでほしい。話を元に戻す。それで、今はなくなってしまった某国を何度か訪れ、すっかり気に入ってしまい、機会があるごとに何度も訪問していたのだという。どんな文化が気に入ったのか、詳しい話は忘れてしまったけれど。何度も通い詰めるうちに、感じのいいSは某国の若い男性と知り合いになり、帰国後も連絡を取り合って、関係を深めていった。その後Sは、自分でバイトしたお金で彼を何度かアメリカに招待し、彼に自由の国の文化を堪能させてあげたのだという。

詳細は記憶していないが、彼女が何度目かに彼をアメリカに招待していたとき、彼の国が突然政治的に不安定となり、結局国に帰ることができなくなったのだそうだ。それで彼女は自分の家族の反対を押し切って彼の正式な身元引受人となり、彼を全身で抱き取った。彼女は結局家を出ることとなり、彼と一緒にアパートで同棲生活を始めた。彼女は働きながら大学を卒業し、彼を支え、アジアのどこかの国で生活している彼の家族に仕送りをし(テレビと冷蔵庫を持っているのは、彼の家族の住む村では一家族だけだそうだ。当然Sの仕送りで買ったわけだが)、勉強を続けて医学部の学生になった。大したものだ。私の理解では、アメリカで医者になるということは、かなりのエリートと考えていい。日本とは大違いだ、、、僻むのはやめて本文に戻る。

そんな彼女が、アジアのどこかからきて頑張っている?私を目にして、興味をもって話しかけてくる、というのは、よく理解できる。Sと親しくなってから、彼のことをよく話題にしたが、“部屋に閉じこもっていて掃除をしないので男臭い”“怠け者”“小さくて弱い”などとこき下ろしていた。彼は、おそらくビザの問題などもあって(おそらく難民のようなポジションなのだと思う)、仕事をしていないと聞いたが、彼女の言葉とは裏腹に、Sはそんな彼を心から愛しているようで(言行不一致はアジア的だと思う)、彼を受け入れることを強硬に反対した家族との絆を失ってしまったことを、決して後悔していないようだった。“私はいつでも結婚する心の準備ができているの”“でも彼ははっきりしないのよ”と、恥ずかしそうに頬を染めていた彼女のことを、たまに懐かしく思い出す。

当時の私には心理的な余裕がなく、彼と直接会ったり、家族で食事に行ったりすることはなかったが、そんなお付き合いをすることが出来れば、彼女も彼も、おそらく喜んでくれただろう。しかし当時の私には、そこまで彼らを思いやる余裕がなかったことが悔やまれる。

”アメリカという国は”、と大上段に振りかぶって理解しようとしても、おそらく空回りするばかりであろうが、自分の身の回りの人たちとの個人的なかかわりの中から、何か本質的なものを見出すことはできるのではないかと思われる。私はSとのかかわりの中で、アメリカ人の中に脈々と流れる、Mothership(Sは女性なので)のようなものを感じて感動した。キリスト教を信ずる国には、“野蛮な後進国の人々に信仰を”といったノリで、与えることや教えることを良しとする文化が根付いているように思われるが、彼女の無償の“愛”のようなものも、キリスト教的な文化に支えられているのかもしれない。彼女の個人的な持ち味ないのかもしれない。解釈は様々に成立するように思われるのだが、私はSとのかかわりから、アメリカ的な、もしくは大陸的な“広い心”のようなものを感じることができ、その後の人生が少し生きやすくなった。

アメリカ的なMothershipのような話をもう一つ思い出したので、忘れないうちに書いてみたい。お暇な方はこうご期待。
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