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5-1. 精神科医としての成長について [留学]

5-1. 精神科医としての成長について

書き忘れたことがったので、まとまらないかもしれないが重複をおそれずに忘れないうちに書いておこうと思う。

若かりし頃の私は、ずいぶんたくさんの患者さんをお世話していた。仕事以外のことにはあまり興味もなく(宴会は除く)仕事漬けの毎日を“堪能”していた。思えば家族にはずいぶんと迷惑をかけてきた。今から思えばもう少しゆとりを作って勉強した方がよりレベルの高い臨床活動が出来たようにも思うのだが、当時は自分が置かれた状況を客観的にとらえることが出来ていなかった。与えられた仕事を精一杯こなす、というか、外来や病棟にくる患者さんをとにかく頑張ってお世話して、おかれた状況でベストを尽くす、それでいいと思い決めていた。今思えば“甘ちゃん”だった。

国公立の多忙な病院で研修を積んで育った私のような医師は、よく大学などで研修してアカデミックな背景を持つ医師たちから“手ばかり動く医者になってしまって、、、”と揶揄されたものだが、私のような立場の医師は、彼らを“頭でっかちで口ばかり”とやり返していた。しかし現場でできるだけたくさんの患者さんをお世話して、、、というやり方を続けていると、やがて限界が来る、というか、主観的な“プラトー”に達してしまうことが多いようだ。私の場合もそうだった。具体的には、心身ともに疲弊して、、、というわけではなく、たいていの患者さんをそれなりのレベルでケアすることは出来るのだが、やることなすことがルーチン化してしまって、医療の質が向上する速度が遅くなる、といったようなことであろうかと思う。

私が当時短期間ではあるがお世話になった先輩は、“精神科医の進歩は二峰性”と言っておられた。その意味は、仕事を始めた数年間は、それこそ何も知らないので、毎日が進歩の連続であるのは言うまでもないが(誠実に働くのが前提)、一定の年月を経ると、進歩の速度が当然遅くなる。この段階で努力をやめてしまって、一生そのままだらだらと仕事を続ける精神科医が非常に多いのだが、実はこの先に、少なくとももう一段階、医師として成長するチャンスがある、というようなお話だった。このことはいつも私の心の片隅に引っかかっており、10年ほど修行を続けた私は、お恥ずかしい話だが、一つ目の峰を超えてしまったような気がしていた。つまり、同じようなことを続けていても、大きな進歩は望めないのではないか、と思いあがっていたのだ。“たいていの患者さんはなんとかすることが出来る”という自信があり、実際評判は悪くなかったように思うのだが、私が毎日携わっている患者さんの治療が何故うまくいくのか、ということをきちんと体系立てて論理的に説明して後進に伝えることは出来なかった。職人としては悪くないが、医師としてはこのままでは不十分なのではないか、何かが足りないのではないか、と感じるようになって苦しみ始めた。

4-3. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか? [留学]

4-3. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか?

同じようなことを繰り返してだんだん慣れてきたので、英語圏で家庭医のようなアプローチで私の希望を実現できるような場所を探してみた。浮かび上がってきたのがオーストラリアだった。この国に留学した経験を持つ先輩は不幸にしておられなかったので、全て自分で調べ上げて話を進めていくしかない。私は家族を連れて何度かこの国を訪れており、ちょっと訛りのきつい英語にも何とか対応できるような気がしていたので、気軽に関係機関に連絡を取った。私のようなどこの馬の骨とも知れない個人に対して、極めて誠実な反応が返ってきた。緊張はしたが、たいへん嬉しかった。相手方からの反応は極めて迅速かつ友好的であり、内容的にはこんな感じだった。“オーストラリアで医療に携わることを希望するなら、日本の医師であるあなたにも可能性はある”“まず定められた英語の試験を受けてほしい”“チャンスは一度だけ”“合格したら次は医学の試験”“基礎と臨床の試験があり、各々チャンスは一度だけ”“全ての試験に合格すれば、あなたは晴れて我が国の医師として認められる”。これにはかなりの魅力を感じた。オーストラリアの医療は、おそらく世界で最先端ということは無いだろうが(オーストラリアの先生方すみません)、少なくとも家庭医のような形で私の希望を(あえて夢とは呼ばない)実現することはできそうだ。オーストラリアに臨床研修をしに行く、というレールを、独力で切り開いていくかどうか真剣に考えていたとき、私は同時にアメリカへの臨床留学の可能性を調べ始めていた。

4-2. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか? [留学]

4-2. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか?

最初に調べてみたのは、確かドイツへの臨床留学の可能性だったように思う。私が研修した当時の日本の精神医学は、アメリカではなくドイツの精神医学を礎としていたため、ドイツの医学に対する憧れがあったのだと思う。世間は狭いもので(It’s a small world!)、少し調べてみると極めて身近にドイツで研究留学を経験された先輩がおられることが分かり、さらにさらに、数年前にお世話になった他科の指導医が、実はドイツで臨床研修を受けた経験をお持ちだということも知った。お話を伺わない手はない。お願いして時間をいただき、いろいろと教えていただいた。ドイツに国際電話をかけ、なんだか難しげな話を楽しそうにされている先生は、私の憧れそのものだった。その先生からの情報では、“日本の医師免許はドイツでそのまま通用するので、言葉の問題さえなければすぐにドイツの医者になれる可能性がある”とのことだった。本当か?(確認は現在に至るまでとっていない。興味のある方はご自分で)しかしドイツでは講義も臨床も英語ではなくドイツ語で行われるのは当然だ。私はといえば、大学ではドイツ語の先生と喧嘩して教室から追い出されてしまい(実話。立派な先生だったので悪いのは私)、しかたなくフランス語を選択しており、学生時代に身につけた僅かばかりの知識は当然忘却の彼方だ。いい歳をしてドイツ語をゼロから始めるのは現実的ではない。深く考える前にこの選択肢は捨て去った。

その次に考えたのは、GP(General Practitioner)の国、イギリスだった。やはりこの国に研究留学をした先輩が数人おられたので、お話を伺い、某有名教育機関にご紹介いただけるというありがたいお話をいただいた。それで早速、慣れないEメールを使ってコンタクトを取ってみたのだが(Windows 3.1の時代だった)、先方からのお返事は次のようなものだった。“受け入れは可能、まずは研究から、学費を払っていただきます”と。それで学費がいくらなのか伺ってみたところ、当時のお金で年間300万円相当ということであった。背に腹は代えられないので、とりあえずお金を払って、イギリスに渡ってから考えるのも一つの手かもしれない、という気にもなったのだが、結局この選択肢も使わないことにした。

4-1. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか? [留学]

4-1. 精神科の臨床留学って本当に実現可能なのだろうか?

領域を超えた医療を形にするために、だれに相談するでもなく、一人でいろいろとやってみた。しかし医学という特殊な世界の中にあって、たとえそれがささやかなものであったとしても、何の力も持たない私が独力でレールを敷くことは簡単ではなかった。考えてみれば当たり前だ。それで、先達が敷いてくれたレールのようなものを探してはみたのだが、なかなかみつからない。それらしきものをみつけても、簡単には仲間にしてもらえなかった。精神科の世界は、ドアを叩いて案内を乞う人に寛容であるように思うのだが、それ以外の領域は、ずいぶんハードルが高いようだった。少なくとも当時の私はそう感じさせられた。結局、数年を費やし、じたばたと悪戦苦闘を繰り返し、残念だがあきらめるしかないのかな、という結論に達した。しかしあきらめてしまうのはよいが、この先どうやって生きていけばいいのだろう?

体だけは丈夫なので、どこにいって何をしたとしても、なんとか食べてはいけるさ、といった根拠のない自信はあった。少しずつでも前に進んで自分がやってみたい医療に近づいていこう、と怪しい情熱を燃やした。自分がいる場所、日本でやりたいことができないなら、それを実際にやっている国を探してみようじゃないか。“やりたいことをやらせてもらえるのなら、どこにでも行ってみよう”という結論を出すまでに時間はかからなかった。どこに行けば“内科精神科医”になることができるのだろう。実際に何をどうすればいいのだろう。皆目見当もつかない。しかしなす術なく袋小路で苦しむよりましだ。

昔のことを詳しく覚えているわけではないが、最初にやってみたことは、私の身の回りにおられる先輩方について調べてみることだった。実際にいろいろとお話を伺って驚いた。先輩方の中には、なんと伝説のフルブライト奨学金を取得してアメリカで研究をした先生をはじめとして、イギリス、フランス、スウェーデン等、先進諸国の有名研究所、有名大学で研究成果を挙げられた、綺羅星のような先生方がたくさんおられることが分かった。文化として“臨床第一、患者さん第一に考えなさい”という医局ではあったのだが、やはり優秀な先輩方は気軽に世界に羽ばたいておられる。素晴らしい。しかしほとんどの方は研究のための留学であり、臨床のトレーニングを受けた方はおられないようだった。しかしよくよく話を伺ってみると、スイスにわたって精神分析のトレーニングを受けた方、カナダで家族療法の勉強をされた方、フランスで集団療法の勉強をされた方など、現地で精神科臨床に実際に携わった方がいないわけではない。私は先輩方ほど優秀ではないが、同じ人間だ、オレだって何とかなるさ、と、希望を持つことができた。

3-4.精神科って楽しいかも [留学]

3-4.精神科って楽しいかも

柄にもなくわけのわからない難しいことを考えないで、素直に精神科医として、例えば精神病院で働けば、何も難しいことは無かったのだが、精神症状で苦しんでいる患者さんが精神疾患に罹患しているという理由だけで通常の身体的な治療を受けられない、という事実を何度も目の当たりにしたため、本来怠惰で自堕落な私ではあったのだが、志を曲げずに何とか道を見つけようと努力し続けた。書いていると恥ずかしい。嘘のようだが本当だ。ずいぶんたくさんの先輩方、もしくは優秀な同僚たちが力を貸したり、相談に乗ったりしてくれたものだ。私は心を固くして近視眼的になっていたが、周囲を見回すと、研究に没頭して大学や研究所にポジションを見つけようとする人、開業などの道を選んで自由で裕福な生活を手に入れようとする人などがいた。開業する人の中には、必ずしも経済的な利潤を求めず、損をしてでも自らの信ずる治療を展開していこうとする人などもいた。立派な人、優秀な人、上手に立ち回る人、、、。私の周囲の医師たちのほとんどは私よりも優秀であったため、参考にはなったが私自身のロールモデルは見つからなかった。それではどうしたらよいのだろう。気合と愚直な思い込みと体力だけでそれまで業界を渡ってきた私の脳裏に、この時期に初めて“留学”という文字が浮かんだ。本当のことを言えば、若かりし頃は何の疑いもなく将来海外で仕事をするものだと思い込んでおり、そんな人生を望んでいたのだが、ある試みに派手に失敗し、夢破れ、幸いにして医師となり、医師としての仕事にやりがいと誇りを感じるようになり、そのころまでには一医師として国内で一生過ごすつもりでいたのだ。しかし一通りの仕事をこなせる時期となり、進むべき道を見失ったときに、昔とは全く違った意味で再び“留学”を意識するようになった。意外な展開だった。だって私は精神科医で、英語なんてしゃべれない日本生まれの日本人なのだから、留学なんてできっこない。全然だめだ、というのが出発点だった。

3-3.精神科って楽しいかも [留学]

3-3.精神科って楽しいかも

人間の心身を扱う医学の全領域の広がりを360度と考えると、精神科が担当する部分は180度になる、と大胆に言い切ってもよかろう。だから精神科の仕事というのは驚くほど幅広く、しかも各々の分野がかなりの奥行きを持っている。であるから、精神科領域の全ての分野でエキスパートのレベルまで自分を磨くことは事実上不可能であり、ある程度の領域をカバーすることが出来たら、そのあとは自分なりに深めていく領域を選択してその後の修行(と私は考えている)を続けることになる。医師になって10年ほどたったころであったろうか、生意気かもしれないが、私もこの時期を迎えた。優秀な精神科医は多くの場合統合失調症に関わることを選択するが、私の場合は少し違った。いろいろと迷った末に、当時としては少数派であった、身体科の研修をしたことを背景に、身体疾患と精神疾患のクロストーク分野、中でもうつ病(もしくはうつ状態)を学んでいこうと決めた。このような選択をする場合、アプローチの仕方は幾通りかあるのだと思うが、私はこんな風に考えた。内科(ジェネラル)と精神科の両方を、専門的なレベルで身に着けることは出来ないだろうか、と。つまり内科精神科、もしくは精神科内科医になるということだ。精神科と内科のどっちつかずになる可能性は高いが、当時はそれが自分の行く道であると頑なに思い決めていた。

私の場合、内科の“ある特殊な手技”に興味を持ち、精神科に進んでからも周囲の先生方のご厚意でトレーニングを継続させていただいていた為、内科と完全に切れたわけではなかった。当時、アメリカのシステムをお手本にして、精神科医が内科のかなりの部分を請け負うような医療を展開している病院が国内にあったことを知り、お願いしてその病院を見学に行った。そこで働いておられる先生方は非常に感じの良い、エネルギッシュな方ばかりであったが、病院の基本は見るからに精神病院であり、身体科的な介入がやや弱いように見受けられた。これは自分が求めているものと少し違うようだ。精神科医が救急外来で救急医として働いている現場を見学に伺ったりもしたのだが、これは完全に救急医療に従事している医師であってもはや精神科医ではなかった。私は精神科と内科の双方同じ重さを持って、患者さんと対峙することが出来るような医療を目指したかった。常になくあきらめ悪く、しつこく追求し続けた。次に試みたことは、精神科専門医を欲しがっている病院にお願いして、専門的な精神科医療を提供する代わりに内科の研修をさせていただく、という方法だった。これは当初はうまくいったように思われたのだが、そのうちに精神科の患者さんで忙殺されて内科の研修がほとんどできなくなり、やがて病院幹部から精神科医として就職することを求められたので、結局その現場を去らざるを得なかった。同じようなことを、何度か繰り返したのちに、他の方法を模索せざるを得なかった。

3-2.精神科って楽しいかも [留学]

3-2.精神科って楽しいかも

私には当時、同期の医師がおらず、独力で何とか道を切り開くしかなかった。僅かな給料を割いて高価な専門書を手に入れ、何度も何度も読んだ。精神科のマニアックな専門書の場合、一冊手に入れるだけでも結構大変だった。当時はアマゾンなどという便利なものがなかったため、時間を作って専門店まで足を運んで買うか、大きな本屋さんに依頼して何週間もかけて取り寄せてもらうしかなかったのだ。しかも精神科の専門書は、部数が出ないので高価であることが多い。すぐに絶版になってしまい、再版されない名著も少なくない。だから独学で勉強するのも一苦労で、熱意とエネルギー、さらには行動力が必要だった。そんなふうにして苦労して手に入れた本を読みこんでみても、私にはこの特殊な分野に関する基礎知識と経験が絶対的に不足しているため、実際の治療の現場に勉強の成果を反映させるまでにはずいぶんと時間がかかった。もどかしかった。正直言って大変つらかった。

独力ではどうにもならないことを遅まきながら察した私は、自らの不明を恥じ、初心に帰ることに決め、先達に道を尋ねることにした。具体的には、当時同じ病院に勤務していた、自分が人柄に親和性を感じる(私よりはるかに優秀だが感受性がなんとはなしに似ている)先輩に相談した、ということだ。この先生は親切にも自分自身の指導者を私に紹介してくださり、結局私もその“先生の先生“にしばらく精神療法をご教示いただいた。涙が出るほどありがたかった。人の面倒を見るっていうのは、自分の分を分けてあげるということなのだなあ、と心から理解し、感謝した。柄にもなく謙虚になってしまった私は、それ以外にも、自腹を切って様々な勉強会に足を運んだり、本を読んだり、先輩に相談したり、勉強会を企画したりしたものだ。ありがたいことに、指導をお願いした先輩方は、みな一様に協力的であり、私の初歩的な質問に対してであっても、親切かつ丁寧に答えてくださったものだ。上記の先生以外にも、自分の通っている勉強会の席を譲って下さったり、なかなか手に入らない本をくださったりした方が何人もおられ、ありがたかった。精神療法以外の治療法、例えば薬物療法や電気刺激療法などは、やる気さえあればかなりのレベルまで独学が可能で、知識を蓄えておけば臨床の現場でそれを生かすことが可能だ。しかし精神療法だけはそうはいかない。地道に丁稚奉公のように知識と経験を積み上げないと、独り立ちにこぎつけることは出来ない。そんなこんなで、あっという間に数年が過ぎ去り、忙しいばかりの研修医生活も終わりを告げた。この後は精神保健指定医という一般の方から見るとかなり特殊な資格を取る必要があるのだが、先輩方に教えを乞い、方々に頭を下げてお力をお借りして、試験に合格すればほやほやの精神科医の出来上がりということになる。少なくとも私が研修生活を送った当時はそんな様子だった。一人前になった後は、やはり先輩方に教えを乞いながら、臨床経験を積んでトレーニングを継続するわけである。

3-1.精神科って楽しいかも [留学]

3-1.精神科って楽しいかも

そのような経緯で精神科の研修を始めた私なのだが、よき指導医や気のいい看護師さん、さらには優秀な同僚たちに恵まれ、毎日が信じられないほど楽しかった。精神科の場合、正直に言えばClear cutに患者さんが良くならないことが多いため、ストレスがないと言えば嘘になる。しかしそれでも自分が医師として成長していることを実感する瞬間があり、単純でわかり易い生きがいを感じることができた。体を使って肉体労働をして、報酬を得ている感覚に近いと思う(私は肉体労働のバイトをずいぶんしてきたので良く分る)。

勉強して、患者さんのお世話をして、たまに(しょっちゅうという説もある)宴会に参加して暴れ、そういった健康的で単純な生活を“猿のように”繰り返した。臨床で超多忙であり、勉強にあてる時間は残念ながらほとんど作れなかったが、体系的に何かを教えてもらえる機会が乏しかったため、何とか無理やりにでも時間を作って本を読んだ。宴会をやめればいい、という至極まっとうな意見は、正直に言って当時は全く耳に入らなかった。我ながら馬鹿な奴だった。

その頃一番苦しんだのは、精神療法(いわゆるカウンセリング)をどうやって勉強したらいいか、ということだった。外来などで涙を流して嘆いている患者さんに、専門家としてどうやって話しかけて何をしてあげればいいのか、学生の頃に身につけた知識と僅か数年の乏しい臨床経験だけでは、目の前で圧倒的な存在感を示す患者さんに対して、自信を持って治療的な面談をすることは事実上不可能で、当時は純情だった私は困りはててしまった。何らかの理論に基づいて一定期間まとまった勉強をし、指導医についてハンズオンのトレーニングを積み重ねることで技量を磨き、自信をつけ、一定の経験が蓄積された頃に初めて治療者として独り立ちする、というプロセスを経るのが一般的な研修方法なのだと思うが、私の場合は様々な理由でスタンダードなトレーニングを受けることが出来るような環境ではなかったため(それでも私には十分で、複数の素晴らしい指導医に育てていただいていた)、事実上、この分野に関しては、準備が不十分なままに患者さんと向き合い、成果を出すことを要求されていたことになる。他の大学や病院でも、同年齢の若い精神科医たちは、おそらく似たような状況におかれていたのだろうと思う。皆どうやって勉強したのだろう。機会があれば聞いてみたいものだ。

2‐4.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐4.研修医ってわるくないかも


研修医なら誰でも経験することなのだと思うが、指導医や同僚たち以外で若い医師が直接接触する人たちといえばやはり看護婦さんたちであり、彼らと仲良くなることができるかどうかで仕事のしやすさが格段と違う。このことはおそらく、現在でも変わらないだろう。医学は実学なので、医療の現場を経験している、ということは大きな意味のあることなのだ。だから本来あまり有能ではない医師であっても、長期間臨床に従事していれば、かなりの臨床能力を持った医師に成長することが可能となる。すべての医師がそうなる、というわけではないが。話を戻す。私は研修医になった時点でけっこうな年だったのだが、それまでに紆余曲折を経ており、自分としては謙虚な態度で研修に望んでいたため(異議を唱える当時の上級医の先生方も多数いるかもしれないが)、自分より物を知っていて、経験がある人は誰でも自分の先生だ、と考え、なんでも素直に教えてもらった。少なくともそうしようと努めていた。心理士、技師、ソーシャルワーカー、医療事務の人たち。しかし何といっても指導医以外で一番の先生は、やはり看護師さんたちだった。毎日緊張して冷や汗をかいたり涙ぐんだりしていた私に声をかけ、励まし、時には宴会に誘ってカツを入れてくれた。“疑問をそのままにしておくのはよくない”などと指導してもらったこともあり、それらの無数の教えの中には、今でも日常的に意識せずに使っているものもある。ありがたいことだった。そんな形で私の精神科研修は始まったのだった。

このブログは書きたくて書いているのですが、目的がないわけではありません。後進のお役に立ちたいということです。もし、こんな話を読んでみたい、ということがあれば、コメント欄にリクエストしていただければお応えしようと考えています。気軽にコメントしていただけると嬉しいです。

2‐3.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐3.研修医ってわるくないかも


精神科の初期研修は、なかなかハードルの高いものだった。公立病院で研修したため、指導医たちは多忙で時間がなく、早朝から時には深夜まで働きづめに働いていた。だから私の教育に割く時間がない、ということになる。簡単なインストラクションを与えられ、体系的な指導などはほぼ与えられないままに、ほぼ独力で患者さんを担当することになる。実際は、上級医たちは遠巻きにして、私のすることを温かく見守ってくれており、問題があるようならやさしく指導してくれたのだが、当時の私は余裕がなく、そのようなありがたい指導体制について気が付くことは無く、砂漠のようなところを一人で歩いているような気がしていた。

外来はある程度一人で診断や治療できる医師でないと務まらないので、まずは病棟、入院患者さんのお世話から、ということになるのだが、私は不安で不安で仕方がなかった。そうではあるが、同時に、オレはようやく精神科医になれるんだ、と、ずいぶんうれしく、興奮していた。早く一人前になりたいものだ、と強く願っていた。こんな文章を書いていると、当時の気持ちがありありと蘇ってくる。いま現在の初期研修医の人たちはどんなふうに考えているのだろう。興味があるなあ。

数名の患者さんを指導医とともに担当することになったのだが、これは簡単ではなかった。診断も、治療も、何を基準にどうやって決められているか不明瞭な部分が多く、何が正しく何が間違っているか、精神科を始めたばかりの自分には、判断のしようがなかった。一番怖かったことは -これだけは忘れようがないのだが- 患者さんを我知らず傷つけてしまうことだった。精神科の患者さんたち、それも入院する必要があるような人たちは、多くの場合、自分を適切に守ることができない。だから彼らに接触する私たちが、彼らの分まで気をつかって、精神的な負担をかけないよう、最大限の努力をする必要がある、と少なくとも私は考えていたし、今もそうだ。これは治療以前の問題で、精神科にかかわる全ての医療者が守るべき原則だと思っている。だから私は毎日朝早く出勤し、夜遅くまで病院に残っていることが多かったのだが(真面目ではあったが宴会にはまめに顔を出していたことを告白しておく)、内的には、病院で仕事をすることが怖くて仕方がなかった。医師として半人前の私が患者さんを傷つけてしまったらどうしよう、と。そんな私を救ってくれたのは、いつだって現場の看護師さんたちだった。

2‐2.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐2.研修医ってわるくないかも

そうではあったが、大学を卒業すると法律上は先輩方と同じ医師になったわけで、能力に限りはあるが、責任をとれる限定された範囲ではあるけれど、治療に参加する権利が手に入ることになる。点滴からはじまる手技、診断や治療の知識や技法、勉強すれば勉強するだけ自分が進歩していくことが手に取るように感じられるため、毎日が楽しかった。当時は、頑張れば報われる、という理想の世界に住んでいるような気がしたものだ。もちろん現実はそんなに甘くはないのだが。例えば点滴の技術など、上達すれば患者さんに直接喜ばれるわけで、“あの点滴が上手な背の高い先生お願い”などと指名されると、天に上るほどうれしかったものだ。そんなこんなで毎日多忙で私生活は皆無であり、家族には迷惑をかけたが、医師としては大変充実した毎日を送ることができた。当時の同僚や指導医の先生方、ありがとうございました。精神科とは全く関係ない科を回っている時でも、本気でその科にのめりこんで一定期間頑張ってさえいれば、だんだん楽しくなってやりがいを感じたし、上級医は仕事ができる、努力を惜しまない研修医をたいていは大切にしてくれるものだ。

内科の中でも循環器科には苦労した。優秀な医師が集まることが多い科なのだが、私の個人的な見解によれば、独特な“文化”と雰囲気を持っているように思われる。自分が優秀だ、とはつゆほども思っていなかった私にとっては“文化的”にも若干馴染みにくい部分があったし、患者さんに感情移入することも当初は難しかった。それで、何とか事態を改善しようと、休みをつぶして病院に泊まり込むことを繰り返した。そんな毎日を送って数か月したところで、指導医が研修の延長を提案してくれた。そうすれば、より多くの手技を任せ、治療の選択権を与えてくれるという。これは当時の私にとって大変ありがたく、魅力的な提案であり、涙が出るほどうれしかった。その先生には今でも深く感謝している。(こんなのばっかりだ。)そのまま循環器科の医師になってしまおうか、と考えたりもした。それでどうしたか、ということなのだが、当時は素朴で素直であった私は、精神科のボスに、いきなり相談しに行った。いまではボスの当時の気持ちを理解できるのだが、ボスはなんとお怒りになられ、“今すぐ精神科にこい”と、内科延長を許してくれなかった。業界のヒエラルキーの一番下、初期研修医であった私は、ボスに逆らうことはつゆほども考えず、“わかりました”と答え、誘ってもらった宴会に出席して、数週間後には精神科の研修を始めていた。我ながら素直ないい子だった、ように思う。

2‐1.研修医ってわるくないかも [留学]

2‐1.研修医ってわるくないかも

そんなこんなで外科から精神科に志望を変え、無事に大学を卒業した私なのだった。卒業試験や国家試験はそれなりに大変ではあったが、劇的な出来事は皆無であり、面白い話でもないのでここには書かないことにする。

卒業後、どこでどんな形で臨床研修をするか、というのは非常に大切な選択だ。いろいろと調べてみたところ、母校を研修場所として選択した場合、私がやってみたい分野を教えてくれる先輩がいないことが分かった。事前に調べておいてよかったと思うが、しかしそれでは精神科を選ぶ意味がないではないか。どうやってこのハードルを越えればいいのだろう。医師としての小さな一歩を踏み出す前だというのに、前途に大きく真黒な暗雲が立ち込めたような気持ちになってしまった。やっぱりやめたほうがいいんだろうか?詳細は省くが、いろいろな先生方に相談して、お願いしてお力をお借りして、おそらくご迷惑をおかけしたこともずいぶんあったものを思われるのだが、最終的には、都会にある、とある大学の医局に入局させていただくことになった。当時は最近とは事情が全く違っており、個人的に業界にコネを持たない私のような人間が、母校を離れ、母校の影響力の及ばない土地で臨床研修をするということはあまり一般的ではなく、それなりに勇気のいる選択だった。しかし私は当時“気合が入って”いたため、全く気にならなかった。私を受け入れてくれた大学は、私にとっては憧れの名門校のようなところであったため、入局の許可が出た時には、うれしかったと同時にずいぶん緊張したものだ。当時お世話になった先生方には、今でも頭が上がらない。私の場合、やはりいろいろな事情で身体科の研修をしてから精神科を始めることとなった。それでその後の私の医師としての進路が決定付けられた。

大学に入局するとさっそく研修が始まるわけだが、精神科の場合、特に優秀な人は“精神科をストレートで研修する”のが良い、とされていた。私のように、なりゆきで身体科の研修をすることになった人間などは、“精神科医としての感覚が鈍る”といって嫌われた。つまり二流扱いされた、といってよいかと思う。私の場合、現在の初期研修医のように、2年間内科外科を問わずに広く浅く研修したのだが、そのことを、“精神科医として大きな損失”などと一部の先輩に言われてとても悲しい気持ちになったものだ。“身体科を1年やれば結構ダメになってしまうのに、2年もやったらもうとうてい取り返しがつかない”と言われたこともあった。ずいぶん厳しいことを言ってのける先生もいたものだ。

1-3.医者になるって? [留学]

1-3.医者になるって?

毎日あたまがボーっとするまで本を読んだ。内容は正直あまりわからないけれどとにかく読み続けた。本棚を一つ二つ読了したころから医局の先輩たちの態度が変わり、私を精神科に勧誘してくれるようになった。ありがたいことだ。いろいろと医師としての将来のことなど教えていただき、たくさんの本をお借りして、勉強させていただいた。それまでは医者という仕事を消極的に選択した劣等感の強いダメ学生の私だったが、これ以後完全に人が変わってしまい、実習に打ちこむ模範的な学生になってしまった、自分で言うのも恥ずかしいけれど。おそらく一番びっくりしたのは教官たちだろう。結局このような数か月を過ごしたのちに、精神科に進むことを心の中で決めた。

家族も数少ない友人たちも反対する人が多かった。家族は“役に立たないじゃないか!”を私をなじった。精神科の先輩方のなかにさえ、精神科を選択することを勧めなかった方もおられた。いわく、“大きな体をいかせ”とか、“儲からないぞ”とか、“つぶしがきかないぞ”とか。確かにそうだったなあ、と今になって思うがもう遅い。当初は手先の器用さに加えて、立体解剖の知識を比較的豊富に持っていた(つもりであった)ため、迷うことなく外科に行って人様のお役にたとう、と考えていたのだが、180度の方向転換をすることになった。その後も依怙地な私は心がわりすることなく精神科を選び、今日に至るまで精神科の医師として修業を続けている。損ばかりしているような気もするが迷いはない。

1-2.医者になるって? [留学]

1-2.医者になるって?

そのよだれを垂らした身なりの整わない女の子をみて、理由はわからないがなんだがジーンとしてしまい、我知らず涙がにじんだ。相棒にばれないように気をつかったことを今も覚えている。その後の数週間はこの患者さんをなんとか理解しようと最大限努力したが、カルテを読んでも、教科書を読みこんでも、図書館で調べ物をしても、患者さんとどんなに長時間お話をしても、この人の頭の中で何が起こっているか、理解できた気はしなかった。強い不全感にさいなまれ、担当の先生と何度もお話しした。申し訳ないが私の理解はほとんど進まなかった。内科や外科領域なら、多くの場合、病気の原因とか発症の機序のようなものは大体わかっており、検査結果に基づいて診断基準を適用すれば診断が確定し、どんな治療が適切なのかガイドラインが教えてくれる。予後なども、疾患やその進行度によってある程度の予測を付けることができる、と言っていいかと思う。それを裏付ける科学的なデータも豊富だ。いくらでも手に入る。

しかるに精神科の疾患の場合は、そもそも病気の原因がわかっていないことが多く、診断は、診断基準らしきものは当時も既にあったが、担当医の主観が診断に反映される傾向が色濃く残っており、治療のほとんどは対症療法で、診断も治療も担当する医師によってものすごく違う、といった、科学としての客観性をやや欠いているかのように感じられる医療が行われていた。現在の精神医療も、そこから大きく変わることは無いように思うのだが、私が学生だった当時はその傾向がさらに強かったようだ。そんな背景も関係していたのだと思うが、私はすっかり考え込み、ついにはふさぎ込んでしまった。全然わからない。怠惰な医大生だった私はどうしたか?いきなりアポも取らずに一人で大学の医局に足を運んだ。不真面目と思われている自分がそんなことをするのは自分でも意外であったし、正直恥ずかしかった。しかし内的な不全感がそれをはるかに凌駕して、私の尻に蹴りを入れたようだ。それで私は実習終了後に精神科の医局に足を運んで先輩方にいろいろと相談し、山のような本をお借りした。ほとんどすべての人が、なぜか私には親切だった。医局の隅の空いている机を一つ借りて眠気覚ましの濃いコーヒーを秘書さんにもらい、貸していただいた本を片っ端から読んだ。しかし精神科の本はわけのわからない専門用語で満ち満ちており、読書は遅々として進まなかった。ものすごくつらかった。しかし週末も医局に通い詰めた。

1-1.医者になるって? [留学]

1-1.医者になるって?

ひとはいろいろな理由で医者になるようだ。入学するのが難しいからという理由で医学部を目指す人、大学院に進んで研究したい人、医者になってお金持ちになりたい人、有名に?なりたい人、人の役に立ちたい人、優雅に暮らしたい人。みんなさまざまな理由で医者になる。医者を私の独断と偏見で大きなグループに分けてみると、真実をどこまでも追求したい学究型、治療に専念したい赤ひげ型、お金や権力を手に入れたい政治家型、それからユニークなライフスタイルを追求したい芸術家型、そんなところだろう。いろいろと人生を失敗してからこの道を選んだ私は、上記から選択すると赤ひげ型になるだろうか。人様のお役に立つことが私にとって職業上一番大切なことだと思っている。

とある人生の選択に派手に失敗して数年を無駄に費やした私は、当初は比較的消極的な理由で医者になる事を選んだ。そういうわけだけだからなかなか勉強に身が入らず、全くどうも情けない医学生だったと思う。精神的にもバランスが悪く、脆弱なくせにこだわりが強いので、さぞかし面倒くさい奴だっただろうと思う。学友たちよ、その節は大変お世話になりました。しかしともかく、医学部は夢破れた私を受け入れてくれた、救ってくれたのだ。全く運が良かった。ありがたいことだった。

危なっかしい学生生活を送ってなんとか進級し、いよいよ臨床実習が始まったある日、私と私の相棒は精神科に割り当てられた。彼は体格の良いスポーツマンであり、やる気と体力に満ち満ちた、心根のきれいなとてもいい奴だった。彼にはいろいろな意味で助けてもらった。彼は気が付いていないだろうけれど。どこかで会う機会を持てるのなら、あの頃の事をいろいろと話しあってみたいものだ。話が飛んでしまったが、この頼もしい相棒が“精神科がコワイ”というのだ。冷や汗を流して涙ぐんでいる。理解に苦しんだが、いつも彼にお世話になっていた私は、我々二人に割り当てられた実習のほとんど全てを受け持つことを承諾した。もちろん彼にも単位取得に必要な最低限のことはやってもらったが。

詳細は避けるが、私たちに割り当てられた患者さんは、比較的若い統合失調症の女性だった。挨拶に行くと陽だまりの中でベッドに座り込み、よだれを垂らしてボーっとしていた。ヘッドホンをして、ものすごく大きな音でなんだか激しい音楽を聴いているようだった。何を話したわけではないが、私にとってこの光景は非常にインパクトがあり、結果的にこの後の人生を左右することになってしまった。

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